すごいすと取材記

阪神高齢者・障害者支援ネットワーク理事長黒田裕子 さん() 兵庫県

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阪神・淡路大震災

その日のことは、幾度となく人に話した。それでもその記憶はいつでもまるで昨日のごとくよみがえる――そう黒田さんは語る。

平成7年1月17日、5時46分。兵庫県の南部地域をマグニチュード7.3の強い地震が襲った。

当時宝塚市立病院の副総婦長を務めていた黒田さん。自宅も無事とは言えなかったが、職責を果たすべくすぐに勤務していた病院を目指した。

 

自宅マンションを一歩出れば、辺りに立ち込めるガスの匂い。崩れた家からは、助けを求める声も聞こえる。

「立ち止まって助けたいと、何度も何度も思った。それでも自分は公務員であるということが頭にあった。まず持ち場に向かって務めを果たさなければならない。ごめんなさい、ごめんなさいと謝りながら、その場を離れた」

 

宝塚市内には当時黒田さんが勤務していた市立病院を含めて4つの大きい病院があった。しかし、地震発生から2時間後には負傷者が殺到し、新しい患者を受け入れることが難しくなっていた。

このままでは死者が増える。そう考えた黒田さんは病院からほど近い市立体育館を救護所にすることを提案。医師2名と看護師2名を手配し、負傷者を受け入れられるよう何とか準備を整えた。

 

午前9時、救護所設置の情報が市民に届きだすとともに、次々とやってくる負傷者。

黒田さんらスタッフは怪我の程度を見極め、応急処置を行い、状態によって病院へと搬送する。すでに息を引き取った人が次から次ぎと運びこまれ47名の看取りであったため、体育館に急ごしらえの霊安室も用意した。

どうにも手が足りず、一人ひとり満足に泥も拭えないまま、その体を寝かせるような状態だった。

「ご家族には一言声をかけるので精一杯。せめて辛いお気持ちを少しでも吐き出してもらえるような時間を持てていたら…。それが今でも悔やまれるんです」

1.17東遊園地にて

毎年1.17には犠牲者を悼み、1年の活動の報告をする。
目を閉じるとあの日見送った47名の顔が浮かぶと涙をにじませた。

夕方には、市内の避難所が満杯になり、黒田さんの救護所でも負傷者以外の避難者を受け入れることとなった。黒田さんは看護師として立ち働きながら、救護所全体の陣頭指揮も引き受ける。避難者の数は一時、約1,500人に上ったという。

 

病院が平常通りの体制がとれるようになったのは2月になってから。それまで救護所は24時間体制で運営を続けた。黒田さんは約一ヶ月の間、家にも戻らず着の身着のまま、救援活動に明け暮れたのだった。

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