相生市で2022年から始まった「船人間コンテスト」。手作りの船でレースをするイベントで、注目度も年々高まっているらしい。相生市といえば、ペーロン祭りで知られているけれど、そこであえて「船人間」?
なぜこのまちでこのイベントが生まれたのか、そこでは何が起こっているのか。主催する「相生(おお)の港町を持続させる会」のメンバーのうち7人に話を聞いた。
取材・文:渡邉しのぶ
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「やってみたいならやってみよう」。素人が集まっての船人間コンテスト
JR相生駅から車で10分弱。深く入り込んだ相生湾の付け根あたりに位置する相生(おお)。現在、地名としては市名と同じく「あいおい」と読むが、地元の方にはかつての呼び名「おお」の方が馴染んでいる。造船業の隆盛により急激に人口が増え、相生市の中でも特に栄えたまちだったというが、現在では、人口減少や高齢化が急速に進んでいる。
代表の渡部政弘さん(43)は、徳島県出身。理学療法士として働きながら、コミュニティカフェ「相生ベース」の運営や、地域の便利屋「オオのナンデモ屋」としての活動を行っている。以前は、妻の実家がある赤穂市の病院に勤めていたが、2017年から相生地区にある介護施設「おおの家」で働き始めた。
- 渡部
- そうしたら、虜になってしまった。子どもが一人で歩いていたら声をかけたり、一人暮らしのおばあちゃんに一緒にコーヒーを飲もうよと誘ったりするようなお互いさまのおせっかいがあるんですよね。これって、これからの“最先端”なんじゃないかなって。

地域に馴染むため、町内会の清掃活動に参加したり、リアカーを引いて2年ほど移動販売を行ったりするなかで、ちょっとずつ声をかけてくれるひとが増えていった。その後、2021年に「相生(おお)の港町を持続させる会」を設立し兵庫県の「ふるさとづくり青年隊事業」でメンバー募集を行う。初めて応募してきたのが稲美町在住で、当時大学2年生の柳原智子さん(23)だった。
- 柳原
- 海が好きだったのと、学生時代に何か挑戦したいなと思って応募しました。私は外からの人間だけど、すぐに馴染める感じがして。ここでだったら、私のやりたいこと、人を巻き込むような活動をしたり、まちに人がくるようなきっかけを作ったりができるなと。
それが形になったのが、「船人間コンテスト」。相生湾の造船の歴史や穏やかな海を感じ、楽しめるイベントとして2022年にスタートした。5人チームで手作りの船を作り、実際に乗って海上でレースをするというイベントだ。牛乳パックの船、断熱材の船、現役の造船所職員が計算して作った船、海岸に漂着したごみで作った船など、さまざまな船が並ぶ。

相生市で船のレースといえば、ペーロン祭りがあるけれど?と口を挟むと、相生地区の保育園に通っていたという大学生吉村有輝也さん(20)が答えてくれた。
- 吉村
- ペーロンは僕も乗るけど、1組に32人、チームを組まないといけないし、大きなチームだと乗れないことも。船人間は1組5人とハードルが低く、親子連れも含めて楽しめる。

柳原さんの提案に「やってみたいならやってみよう」と開催されたイベント。第1回の開催まで、安全性の確保、地元団体や行政の協力を得るなど、一つ一つ課題をクリアしていった。初回参加は、会のメンバーも含めて5組。小さいながらも、第一歩を踏み出した。メンバーであり、地元住民の田中香奈さん(61)の言葉に当時の実感がこもる。
- 田中
- 正直、開催は無理だと思っていたんです。大きな組織じゃないとできないんじゃないかって。終わったとき、『渡部さん、できたなー』って思わずため息が出たくらい。素人が集まってできるんだっていう驚きがありました。
「相生(おお)地区が好き」「地域活性化がしたい」「イベントに携わりたい」「地元のために住民としてできることをしたい」など。住む地域も参加動機も年齢もバラバラで、どちらかといえば寄せ集めのメンバーたち。
渡部さんという移住者が感じた「可能性」をきっかけに、外からの力が入ることで「相生(おお)の港町を持続させる会」は動き出した。
船が浮かべられない。そこで起こったこと。
会の転機になったのは2024年、船人間コンテストの第3回だと大学生の吉村さんは話す。第1回のときは5組だった参加者は12組に。県外からの参加者もいて、イベントの注目度も上がってきていた。こうした状況もあり、より安全な運営のために、海上保安庁から「注意報が出たら中止」するよう指導があった。そして、実施の可否を判断するタイミングで、天候はいいのに注意報が出ているという事態となる。
会のメンバーには動揺が走り、嘆く人も落ち込む人もいた。ただ、そこから、急ピッチで話し合いと準備が進む。
- 吉村
- 海に船が浮かべられない。でも、『だから開催できない』ではなく、『どうやったらできるか』って考えたんです。造船の歴史や相生湾を体感して楽しんでもらうっていう趣旨さえ外れなければ、行く道が多少ずれても最終的にそこへ向かえばいいなって。
レースはできないけれど、コンテストはできる。これまでレースに参加するだけだった参加者に船を作った思いを語ってもらったり、参加者やお客さんたちによる投票制にしたり。全体の指揮、連絡調整、必要な物品の準備、SNS の発信など、チームメンバーがそれぞれの立ち位置で開催に向かって動き、予定とは違う形ながらも楽しみ方をつくり出した。そんななかで、寄せ集めだったチームが、それぞれの力を出し合い、補い合いながら動くチームになっていった。

- 渡部
- 理学療法士として働いていると、けがや病気というある意味“挫折”を経験している方に出会うことが多いんですが、その人がその人であることには変わらない。それを思うと、団体として活動するときも、目指している場所に対して、いくつかの仮説を重ねて実践しているというのは無意識にあると思います。
渡部さんの言葉に重ねるように、吉村さんが口を開く。
- 吉村
- それを、先にやってるのが、相生(おお)だと思う。急激な人口減少とか言うけれど、高齢者が一人暮らしだと住めないなんてことなくて、実際に助け合いながら暮らしている。難しくても何かしらのやり方はあるというのを見てるから、自分らもできるじゃんと思う。
- 渡部
- こうしたことを外部の若い人たちが見ることによって、ほかにも広げていけるんじゃないかとも思うんです。
そこには、このまちの歴史が関わる。
「このまちは終わりや」と言うけれど。
相生市での造船業は1900年代初頭に興った。1960年代〜70年代に最盛期を迎え、対岸の造船場に向かう浮橋「皆勤橋」を通って、毎日1万人もの従業員が通勤していたという。

当時を知る地元住民でメンバーの江見学さん(60)は言う。
- 江見
- 大勢の方が外からやってきて、社宅もお店もたくさんあって。地区内に映画館が3軒、銭湯が7軒もあったほど。それが一つ減り、二つ減りして。
同じく地元住民で活動に加わる松本悠助さん(44)も続ける。
- 松本
- やっぱり若い人たちにとっての魅力がないんだろうなって。土地が狭いので新しい家が建ちにくいのもあるけれど、造船業が下火になって地元の産業がなくなったのが大きいかなと。
- 江見
- この地域の人は、ほとんどが造船所に勤めてたからね。
人口減少と高齢化が一気に進んだまち。当時の賑やかさを見聞きしている地元の方の語りには寂しさがにじむ。しかし、渡部さんはそこに可能性を見出す。
- 渡部
-
市の他の地区と比べても急勾配での人口減少が起こっていることもあって、地元の方たちは『このまちは終わりや』と言う。でも、外から来ると、ノスタルジックな街並みが残っていたり、祭りも盛んだったりと魅力を感じた。自転車で5分も走ればスーパーも病院もドラッグストアもあって暮らす分には不便じゃない。
造船の時代に九州や四国、中国地方といった外から来た人が多く、他人同士が助け合うような土壌が昔からある。
もともといた人たちからすると『なくなっちゃった』かもしれないけれど、このタイミングで来た自分たちからすると、可能性しかないむちゃくちゃ面白いまちだったんです。
認知症の方も、移住者も。衰退のまちが見せる底力。
- 渡部
- このまちでは認知症の方でも一人暮らしを継続されている方が多いんですよ。もちろん、何の問題もないわけではないですけど、周りの人たちが自然と声をかけたり様子を気にしたり。そういうのが当たり前の日常として繰り返されているんですよね。
地区外から参加している若いメンバーたちは、そんなまちから何を受け取っているのだろうか。
- 吉村
- やり方はいろいろあるんだなって。遠回りしてでも、悪あがきでも、できることはある。
- 柳原
- 将来的に、人に寄り添えるような場を作りたいなというのは、このまちでの活動を通して感じています。
撮影を担当する大学生小倉唯人さん(20)も、市内の別地区から活動に参加している。
- 小倉
- 別の地域での活動にも参加してるけど、ここでのやり方は、他の活動にも生きてます。
それでは、この会や渡部さんの活動からまちが受け取っているものとは。
- 田中
- こうやって若い人たちが入ってきてくれて、思ってもみないようなこともできて。こうやって活動してくれていること自体を、もっとまちに広げていきたいなとは思っています。
- 江見
- 渡部さんが活動し出してから、移住者が13人増えたんです。渡部さんが空き家の持ち主に意向を聞いて、このまちに興味を持ってくれた方と繋げている。お子さんのいる方も、外国人やひとり親世帯の方も来てくれています。移住したいと思うだけの魅力がここにはあるんだなっていうのは、外の方が入ってくれたからこそ気づいたこと。
「衰退」がまちの外との関わりを増やし、生まれた変化。寂しさはもちろんあるけれど、それを嘆くばかりではない、そこに生きる人たちやまちとしての底力がここにはある。それはこの会を通して外部の方と地元の方が混ざり合うからこそ“魅力”として浮かび上がり、さらに外部の人を引きつけている。
取材終わり、会のもう一つのメインの活動である「龍山公園の清掃活動」の現場である龍山公園に立ち寄った。10分ほどで頂上に行ける小さな山で、かつては桜や紅葉の名所として愛されていたが、近年は誰も立ち寄らない荒れ放題の山となっていた。
- 渡部
- 昔の記録を見ていたら、まちや海が一望できる見晴らしのいい場所だったということが分かって。行政に相談の上、伐採なども行って整備や清掃をしているんです。

山道にはところどころに会によって用意された竹ぼうきが置いてあり、歩く人が自分で山道の落ち葉を掃けるようになっている。「ふらっと来られた方が、自分の周りをちょっと掃いてくれたら」と渡部さんは話す。会のSNS発信を見て、実際に足を運んでくれる方もいるという。造船の歴史も、それが生み出した人々のつながりも、まちの人が楽しんでいた周囲の自然も。もともとあったものを生かしながら、できるやり方を見つけて、外からも内からも関わる人を増やしていく。
この竹ぼうきは、このまちが、この会が見つけたやり方の象徴のように感じた。
