福田正さんは3人の子どもを、自然あふれる環境で育てたいと思い、神戸市から三木市に移り住んだ。幼いころから山や川、海が遊び場であり、趣味の釣りで異変を感じたことで、環境の源は森にあると学んだ。県下最大の森林ボランティア活動団体の会長を務め、森林整備や環境体験学習などを通じて、森を守ることの大切さを伝えている。
少年時代に明石港から垂水まで泳いでいた福田さんは「竜宮城が見える気がするくらい海がきれいだった」という。神戸市の御影で産湯代わりに宮水を浴び、小学校2年生からは舞子で暮らした。当時の舞子は、山で口笛を吹けば鳥が寄ってきたり、山田川の水を飲んだりできる環境だった。
結婚し、父親となった福田さんは、子どもたちも自然の中で成長させたいと、昭和52年、三木市に引っ越した。1歳の時に脳腫瘍で「95%厳しいと告げられた」手術を乗り越えた、長男・隆廣さんが幼稚園の頃のことだ。裏庭から虫の音が聞こえ風が通り、持ってきたエアコンを何年も使う必要がなかった。
福田さんが森に強い関心を持つようになったきっかけは、釣りを楽しむ海で不安を抱いたことだ。全日本サーフキャスティング連盟兵庫協会のメンバーとして「善意の釣り大会」を毎年開催し、釣った魚をすべて母子寮などの施設に贈っていたところ、釣果が減り、魚種が変わっていくことに気づく。福田さんは、農業雑誌の関係者から「海は陸(おか)が鏡」であると教えられた。整備されていない森から、河川を下り海へ流れる水の質に問題があるというのだ。福田さんの中に、「養分の豊かな水は森で生まれる。森林は地球上のすべての生き物の財産」という意識が芽生えた。
福田さんは、会社勤めをしながら兵庫県主催の森林ボランティア講座を受け、間伐の意義や技術などを学んだ。平成8年に、講座の修了生有志と兵庫県が「このまま何もしないのはもったいない」と、ボランティア活動団体を設立。現在、会員400名、県下20カ所で活動する「ひょうご森の倶楽部」だ。
平成12年、59歳で退職。勤めの誘いを受けながらも俱楽部の活動のため再就職はしなかった。「定年後も仕事に就いていたら妻にもっと楽させられたとは思うけど、倶楽部を引き受けたからには、という気持ちがありました。年間200日ほど倶楽部に関わる活動をしていたので無理ですよね」と笑って振り返る。
兵庫県が提唱した「県民総参加の森づくり」の目標の1つ、「森林ボランティア育成1万人」を聞いた時、その大きな数字にため息が出たという福田さん。保全活動にとどまらず、人材育成や啓発活動も担うことになる。また、継続してこその整備活動と、会員の経費負担が重くならないための仕組みづくりにも尽力した。平成16年に「ひょうご森の倶楽部」はNPO法人の認証を受け、17年度からは県より受託した森林ボランティア講座やリーダー養成講座の企画運営も行うことになった。
同年から約7年会長を務めた福田さんは、事務処理をしながら、講座や実技指導などの講師として活躍。森林ボランティア団体連絡協議会設立にも力を注いだ。さらに、毎月、三木山森林公園やグリーンピア三木のほか、川西市の黒川地区など県下各地の活動地へ車で2~3時間かけて通い、森林整備に汗を流した。共に奔走した当時副会長の小笹康男さんは「変革期のたいへんな時期に、率先してなんでもこなしていました」と話す。
福田さんは活動を通じて、自身が影響を受けたという、400年も前から海と深く関わる森林は「魚つき林」と呼ばれ、伐採によって漁獲量が減り保護に転じた京都の伊根の例や、カキに悪影響を与える気仙沼湾の変化の原因を追究し、宮城の漁師らが植樹を始めた「森は海の恋人運動」の話を紹介しながら、森を整備することが海の環境を守ることを伝え、聞く人の共感を広げていった。また、黒川地区の活動には「底辺を広げることが大切」と、「山に行く間に1回でも竿を振りたい」という釣り仲間たちを6年かけて説得し、参加してもらった。以降、クヌギの植樹や下刈りなどの育樹活動をするようになり、今年で8年目になる。
実技指導では、植物の紹介など受講者が関心を高めそうな話を交える。除間伐することで林床に光が入り林床の生き物が活発に活動し、刈られた草や落ち葉がたい肥や腐葉土となり、地面がふわふわのスポンジ状になることで雨水を吸うため、土砂崩れなどの防災につながる。「1センチ積もるのに何年かかると思いますか」とクイズを出し、「100年」という正解に受講生が驚く。松田貴子さん(47)は、「技術面以外にも、福田さんの体験談や植物の話が聞けるので分かりやすいし、楽しい」と、修了証を手にした。
活動にあたって心がけているのが「安全はすべてに優先すること」だ。別働隊の伐倒による重大事故を受けて安全マニュアルを改正し、教育を徹底。2年にわたり各活動地に倶楽部の役員がパトロールに出向き意識づけをした。福田さん自身も以前に、振り下ろそうとしたナタが頭上の木に当たってそれたため、左親指の先を5針縫うケガをしたことがある。道路までは山を一つ越えなければならず、常備していたガムテープで止血して心臓より高く手を上げながらの山歩きは、日本の北・南アルプスを踏破した福田さんでも息が切れたという。
近年では社会貢献の一環で森づくりに取り組む企業が増え、同倶楽部にも協力依頼がある。福田さんは、会社勤めで培った経験をもとに、木を斬る人・指示する人・ロープを引っ張る人ら約5人のチームで役割分担し、同じ目標に向かって一つにならなければ安全に倒せない作業を、仕事にたとえて説く。会社ではトップの方針が各部・各課に伝わって各自が役割を果たし、信頼し合って力が一つになってこそ大きな目標も成し遂げられると解説。新入社員研修の場になることもある森の中で、福田さんの声に力がこもる。
「森づくりは人づくりです」
三木山森林公園には、市内外の小学校から環境学習に訪れる。年3~4回来る学校には、春に咲いた花が実をつけタネとなり、風や昆虫に運ばれた先で芽を出して新たな命が誕生し、枯れて土の栄養になるなど季節を追って「命のリレー」を伝える。福田さんの第一声は「朝ごはん食べてきましたか」だ。「ごはんはお米のタネ。稲の赤ちゃんやで。おちゃわん一杯に千粒として、千の命をいただいてきたということやね。頑張って、森の中にどんな命があるか探検に行こう」と説明して出発する。
すすきが欲しいと言った小学校2年の男児には「取ってどうするのか」と聞き、「家で飾って楽しむ?それなら大事に持って帰ってね。草も花も、ここに咲いてたくさんの人に見てもらうのとどっちがうれしいかなあ」と問いかけながら、剪定ばさみで切って渡した。「ぼくも」「私も」とせがまれ応えたが、2時間の道中、途中で捨てる児童は一人もいなかった。
子どもが3歳の時は自分も3歳と考えて子育てをしたという福田さん。孫のような児童たちにも目線を下げて熱心に話しかける。木の葉を触らせたりにおわせたり、ザリガニを手に乗せることもあった。
「おとなに感想を聞いても目に見えたことだけ言う。ほおをなでる風や川のせせらぎ、五感で体感すると感性も磨かれます」
福田さんの信条は、「者に聞くより 物に聴け」。電話やFAXだけでは真実が見えないことのあった会社勤めで学んだ。県の森林審議会委員でもある福田さんは、審議前に現場に足を運ぶようにしている。閉鎖になったゴルフ場や開発中止となった宅地へのソーラーパネル設置案の際には、下流域の住民に意見を聞いた。また、脳腫瘍の影響で左手と左足が動かなくなった隆廣さんが通う施設や作業所へ手伝いに行き、実際に現場を見て「初めて分かったことが多かった」とも話す。
市内で記念植樹となればアドバイザーとして携わったり、他団体の相談を受けるなど予定帳に空白がない。ボランティア活動ではあるが、時には無理をしてでも引き受けることがある。それでも突き動かされる理由が、福田さんにはあるという。
「長男は私の半分の歳(33歳)で亡くなりましたが、周りのみなさんのお世話のおかげでいつもニコニコしていました。そのお返しをしたいんです」
森林整備は、温暖化防止、生物多様性保全など地球規模の命につながる事業でありながら、活動先で出会う身近な人たちの「笑顔が何にも代えがたい」と、地道な活動に取り組んでいく。