平成7年1月17日。淡路島北部、北緯34度36分、東経135度02分を震源地に地震が発生した。大きな被害を蒙った淡路市で、木村さんは、復旧活動に走り回った。
その時の経験を活かし、東日本大震災では発生直後から救済物資を集め、夜を徹して東北に向かった。緊急に必要なものを届けた後は、被災地の経済復興を後押しするため、継続して支援を続けている。
大阪で生まれた木村さんは、家庭の事情で小学校の6年間を但馬の和田山町竹田(現朝来市)で過ごし、中学校から大阪へ戻った。カメラマンだった父親の影響もあり、写真を撮ることが好きだった木村さんは、高校卒業後、写真専門学校に入学。技術を習得した頃、ちょうど大阪万博が開催されていたことから、会場での記念撮影のカメラマンとしてプロの道を歩み始めた。昭和50年、淡路島の記録映画を撮影していた父が体調を崩したため、その仕事を引き継ぐことになる。大阪から淡路に移り住んで、東浦町で写真店を開業した。
淡路に移り住んだ木村さんが、地域のことに関心を持ったきっかけは、大阪から遊びに来た友人を東浦のサンビーチに案内した時に「きたないなあ」と言われた一言からだった。悔しい思いを抱き、東浦の海岸をきれいにしようと掃除を始めた。掃除をしていた時に、手に負えない程の流木が流れ着き、役場に勤めていた友人に相談し、仲間を集めてもらった。作業の後、話をするうちに、ボランティアグループ「青年さきもり会」が誕生する。行政や団体に寄りかかって活動するのではなく、会費を集め、掃除道具を揃えて行動する自立した会にした。カーブミラーの清掃や献血の推進運動など、様々な活動を重ねるうちに、交通が不便で住みにくいと言われていた淡路に対する意識が変わる。淡路の良さを認識し、地域に役立つことをしたいと考えるようになった。
その後、淡路の特産品をPRするための「ミス・カーネーション事業」や「日本吹き戻し保存協会」などで活動の輪を広げて行く。今では、一般社団法人淡路島観光協会の副会長など、数々の地域団体やグループの役職を務め、淡路の魅力を全国に発信しようと駆け回っている木村さん。故郷とは、生まれたところではなく、育ったところでもないという。「故郷は、たった一度の人生を送るところです」
平成7年に発生した阪神・淡路大震災。木村さん自身は、大きな被害を受けることがなかったため、震災直後から島内を走り回り、救援活動に追われた。「これをしなくては」という気概はなく、できることをしようと、自然に身体が動いた。
「意識してするのではなく、テーブルから落ちたスプーンを拾うような感じで動いていた。それは東浦の海岸清掃と同じことだ」
木村さんは、支援する側と支援される側とを経験した。淡路には、義援金や救援物資が全国から寄せられた。感謝の気持ちを持つとともに、救援物資の中には、使わない物、使えない物がたくさんあることに胸を痛めた。避難所の限られたスペースに、使わないと思われるものが山積みになっていく。せっかくの善意を生かすことができない一方で、必要としている人の手元に必要な物が届き難いことに歯がゆさを感じていたという。また、大量の救援物資があるため、被災者はモノを現地で購入する必要が無いことから、被災地の経済が衰退していく現状を目の当たりにしてきた。この時の経験が、後の東日本大震災での救援活動で活かされることになる。
平成23年3月11日、東日本大震災が発生。その直後、木村さんは「とりあえず必要なモノを届けなくてはならない」という思いに駆られた。
震災の6日後、地域活動を共にしていた仲間や行政の協力で「復興支援ネットワーク淡路島」を立ち上げ、阪神・淡路大震災時の経験から、被災地の情報を聞き、必要とした救援物資を集め、10tトラックに伴走して高速道路を走り、東北へ向かった。
被災地に支援物資を届けた際、全国から寄せられた衣類などが使われないまま保存されていることを耳にした。活用されないまま保管していくうちに、必要な日用品の保管場所が足りなくなっている。木村さんは、空になったトラックの荷台に使われない救援物資を積み込んで帰り、それを売って義援金にすることを、物資を届けた宮城県七ヶ浜町に申し出た。町は、被災者のために寄せられたものをリサイクルすることに戸惑いがあったが、 “阪神・淡路大震災の経験から生まれたありがたい提案”と受け取り、余った救援物資の有効活用に踏み切った。復興支援ネットワークのメンバーは、ショッピングセンターシーパや洲本市商店街などの協力を得て支援バザーを開き、持ち帰った救援物資を売って、義援金に変えた。
支援バザーで得た現金を使い、救援物資であることを伝えて量販店で買い物をしたり、直接メーカーに掛け合って品物を注文すると、より多くの買い物ができるかもしれない。しかし、被災地で必要とされているもの、例えば白物家電と呼ばれている洗濯機や冷蔵庫を運んでいくと、被災地で頑張っていこうとしている電気屋さんは、この先何年も商売が成り立たなくなってしまう。被災地に暮らす人たちの暮らし向きを考え、震災直後に必需品を届けた後は、経済の復興を後押しするのが望ましいと、現地で調達することに拘った。木村さんは、「復興支援とは自立できる為の経済を応援することが一番大切」と訴える。
震災の年の12月、復興支援ネットワークが七ヶ浜町で「餅つき大会」を開催。仮設住宅に住む人たちの交流の機会をつくり、阪神・淡路大震災で問題になった孤独死を防ぎたいとの思いからだった。事前準備から地元の人たちに参加してもらい、食材や箸、皿などの消耗品は全て現地の店で買うようにした。当日は、七ヶ浜町のはらから福祉会が300kgのもち米を2升ずつに分け、水に浸して持ってきてくれ、七ヶ浜町婦人会の人たちと一緒に、600軒分のお正月用の餅をつきあげ、配布した。子どもたちも餅つき体験を楽しんだ。その後も、毎年の恒例行事として続けているが、仮設住宅が解消すると一つの区切りを迎えることになる。「毎年続けることができたのは、地元の人たちの協力があってこそ」との思いから、平成27年12月、共に餅をついてくれた七ヶ浜婦人会に感謝状を贈った。
復興支援ネットワークを立ち上げた当初、メンバーは30人ほどだったが、口コミで淡路島各地から100人を超える人が集まった。運送会社の2度に渡るトラックの無償提供や、県立洲本高等学校野球部の積み込み作業のボランティアなど、たくさんの人の気持ちで物資が届けられた。
木村さんは、無理と無駄のないように、被災者のために気持ちを込めて行動することを心がけ、支援活動を続けた。「過去の経験を学びとして、被災地の経済活性化に繋げる息の長い支援を続けるとともに、経験を検証し語り継ぐことが減災につながる」と語る。
自分の役割を、ランナーを進めるためにバントを打つ、バントヒッターに例えた。ランナーを進めることを第一に考え、できれば自分も生き残りたいと言う木村さん。「多くの方々と淡路島に育ててもらって今の自分がある。好きな淡路島の役に立ちたい」と、打席に立ち続ける。