岸岡孝昭さんは、自分たちのまちは自分たちで守ろうと地域の民生委員・児童委員に声をかけ、2006年に「青山1000人会」を立ち上げた。団体名の由来は地域を良くしたいという人が千人集まれば、住みよいまちに変わるだろうという思いからだ。
主な活動は、「子どもが主役のまちづくり」を目的に、通学路ウォークや親子自然体験塾などのイベント企画、高齢者には集える場として「ふれあい喫茶」を毎月開催するなど。活動開始から10年の節目となる2016年には「ひょうごユニバーサル社会づくり賞」団体部門の知事賞を受賞し、長年の活動実績が県から顕彰されるまでになった。
育った集落は同級生が9人という小規模の学校で、幼い頃はどちらかというと人見知り。すぐに人の背中に隠れてしまうようなシャイな少年だったという岸岡さん。平成元年に民生委員・児童委員の委嘱を受けたのがきっかけで、徐々に初対面の人とも打ち解けられる性格になっていったという。
岸岡さんは市の職員として忙しい職務のかたわら、頼れる人がいない方の相談相手になる「はりまいのちの電話」の相談員の活動も開始。何事にも手を抜けない性格のため、大阪の傾聴ボランティア団体に心理学を取り入れた接し方を学びに行くなど、活動をより深める努力も怠らなかった。
1995年、阪神・淡路大震災の翌日、市水道局の職員だった岸岡さんは、給水支援で芦屋市に向かった。道中、横倒しになった高速道路や陥没した道路を目の当たりにし、技術職員として公共工事に関わってきたが自然の猛威の前にはかなわないと誇りを打ち砕かれたという。そして、炊き出しなど一過性のイベントではなく、継続的支援の必要性を感じ、帰任後も、休日には芦屋市内のボランティアに加わったのだった。
震災から1カ月後、神戸や近隣の自治体では敷地を確保できず、姫路市でも仮設住宅の建設が始まった。市内4カ所の玉手、新白浜、御国野、南駅前に計569戸が整備された。住み慣れた自宅からの距離に“神戸から一番遠い仮設”と呼ぶ人もいた。姫路でも活動を始めるべく、同年4月、支援グループ『姫路こころのケアネットワーク』を立ち上げ、仮設住宅の訪問を開始した。
グループが発足してすぐに個別訪問が受け入れられたわけではなかった。当時、ボランティアという言葉は世間で認知されておらず、「『ボランティア?押し売りですか』と怪しんで、扉さえも開けてくれない人もいました」と、岸岡さんは語る。多くは、神戸の避難所が閉鎖され、行き場を失った高齢者で、遠方に住まうことになったため、地元である被災地の情報も届かず、サポートも希薄になっていて、孤独で不安な状態だった。
岸岡さんは、家族からのアドバイスで、声かけの代わりに絵手紙の投函を行い、少しずつ本音が聞ける関係になってきたと思った矢先、訪問を拒んでいた新白浜仮設に住む女性が亡くなった。死後3週間も経つのに、気付けなかった。「二人目は出さない」を合言葉に、99年8月に最後の一人が神戸に戻るまで活動は続いた。
岸岡さんたちは、仮設住宅への個別訪問が受け入れられるようになると、市民と被災者が交流できるよう、各仮設にできた集会所「ふれあいセンター」で食事会やもちつき大会を開き、行政との相談や交渉の窓口になるよう自治会の結成を手伝うなど、活動内容は多岐に渡っていた。仮設住宅の解体後は、特にお年寄りが多い青山地区で見守り活動を展開し、高齢者が地域で孤立しないよう心がけた。
2005年10月、地区内でホームレスの男性が死亡する事件が発生した。高校生たちに投げ込まれた火炎瓶による火災が原因だった。問題解決にはどうすればいいか?岸岡さんは地域住民にアンケートを実施。地域に住む者同士、顔が見える関係になれるよう、「気軽に集える場がほしい」という多数の回答結果を踏まえ、集い場づくりへと行動を開始した。
岸岡さんが結成した『青山1000人会』では、子育てに悩む母親たちが集まる場をつくったほか、2009年には「お年寄りが気軽に集まることができる場を作ろう」と、“ふれあい喫茶”を企画。参加費100円でコーヒーやパンを飲食しながら、住民同士が雑談するサロンを運営するように。時には、詐欺や認知症予防のための講座を開催し、地元の小学生が子ども一日店長として参加することもあり、多世代交流にもつながっている。人気は広がり、今では参加者が100人になることも。一緒に“ふれあい喫茶”を開催している松本千代美さんは岸岡さんのことを「気配りと思いやりがあり、何事にも挑戦するリーダー 」と話される。
定年退職してからは「ボランティア活動に専念できる毎日が楽しい」という岸岡さん。活動の原点である民生委員は2017年、民生委員制度創設100周年を迎える。「ありがとうと言ってもらえると次の活力へつながる。私をはじめ、全国に配置されている民生委員の力を活用して地域の絆を結び、一人では解決できなくとも地域住民の協力で解決できることを増やしていきたい」と、気負わず自然体で楽しみながら、今日も岸岡さんはボランティア活動に勤しむのだ。