きっかけは、恩師に勧められた「ふるさとひょうご創生塾」との出会いだった。
「伊能忠敬は49歳で息子に家督を譲り江戸・浅草に出て、天文学者・高橋至時に弟子入りしました。日本中を測量して回ることになったのは55歳の時。現代の年齢に当てはめるなら、およそ70歳になってから夢を追いかけるため動き出したことになります。“人生二度咲き”ともいえる彼の生き方に感銘を受けたんです。自分の人生も何らかの形で残していきたいと思いました。」
卒塾にあたっての研究テーマを探していた時、伊能が播磨に足を踏み入れてからちょうど200年目の節目だと知る。
「伊能が地図作りのために歩いた沿岸地帯を、自分たちも歩いてたどってみようということになりました。ちょうど東播磨一帯は石の特産地。石仏や石棺、道標など石に刻まれた地域遺産が多いんです。伊能が歩いた足跡をたどりながら、“路傍のふるさと遺産を再発見することで地域をつなごう”というテーマが生まれました。」
高塚さんたちによる、ふるさと創生の始まりだった。
<2006年5月13日 全てがここから始まった第1回調査(清水神社から教信寺)>
<伊能忠敬が測量時に使用した「御用旗」を真似て進行するふるさと歴史探索の参加者たち>
伊能の足跡をたどった卒塾レポートを完成させた高塚さんたちは、卒塾時に知事から「ふるさとひょうご創生マイスター」の称号を授与された使命感も手伝い、声をかけた地元の人たちと共におよそ20名で同好会を結成。コツコツと活動を続けていった。
「みんなから面白いという声が上がり、活動の結果を本にしてはどうかとアドバイスをいただいたんです。当初メンバーたちは『誰も読んでくれないだろう』と消極的だったんですが、『ダメでもともと。自分たちが作ったという記録を残すのもいいことでは?』とメンバーの一人が言い始めたのをきっかけに、出版に向けてスタートすることになりました。」
企画から構成、編集まで自らの手で取り組み、3年がかりで書籍が完成。平成21年『伊能忠敬の歩いた播磨みち(浜街道・西国街道・巡礼道等)』は、4カ月で1,000部を完売する人気本となった。
この書籍を皮切りに、伊能忠敬の測量にあたり幕府から各村々に通達された「御証文・先触書・書上書等」をまとめた記録『御測量方奥組澤場筋通行付諸事控』を、地元古文書の会の協力のもと解読すると共に、因幡街道を調査し準出版。さらに平成28年に『伊能忠敬の歩いた播磨みち(ひめじ道・小野道・ありま道)・第二編』を出版。
「伊能が見たものが、今の我々の目で見るとどうなっているのか、今昔物語のように資料にまとめました。こういう歴史遺産があったという事実を、記録として次世代に残しておくことが大切だと思ってまとめました。」という高塚さん。歩いて、歩いて気づいたものは、播磨の歴史の深さと同時に、グループの名前にも取り入れた「ご縁」を大切にする意味だった。
<多くの仲間たちとともに盛大に開催された出版記念>
<『伊能忠敬の歩いた播磨みち』第一編・第二編>
「伊能の足跡を、ただたどるだけなら数時間もあれば終わります。風に吹かれながら歩くことで、自転車や車では通り過ぎてしまうところに『こんなものがあったのか』と、普段気が付かないものが飛び込んでくる。歩くことが、自分たちの足元を照らしてくれるんだと実感できました。」
しかし何よりおもしろいと感じるのは、「石仏や道標を調べていると『何をやってるの?』と地元の人が出てきてくれて、ふれあいができること」と高塚さんは語る。
<調査の途中で道標を発見し記録をとる調査隊>
「そんな時、『おもしろい話はありませんか?』と尋ねると、『伝説やけど、こんな話が……』とエピソードが出てくるんです。私たちの本は、畑から引き抜いたドロ付の生野菜そのものみたいなデータを元に、地元の人達とふれあうことによって、地域の歴史や文化遺産の伝承につなげていくことができればという、希望を込めて書き上げていったものです。」
こうしたやり取りを通じて、人とのご縁を大切にすることを再認識できたという高塚さん。
「私自身は、いい仲間に助けられてここまできました。ご縁をつないでいただいたおかげです。人と人とのつながりが、無限に広がっていくことを実感できました。」
この後、そのご縁の広がりが次へ次へと続いていくことを、高塚さんは体験することになる。
<ふるさとひょうご創生塾ご縁グループ「先人が残した旧北条街道を歩こう」55名参加>
それは、大学で研究成果を展示していた時のことだった。ある博物館から、活動内容についての講演依頼が舞い込んだのだ。
「この講演をきっかけに、貴重な資料やデータを、一人でも多くの人に知ってほしいと思うようになりました。私自身も、当然、郷土を愛する気持ちもあります。高砂は歴史のある街です。それらの史実を上手に活かしながら、まちづくりに少しでも貢献したいと思っています。」
<「伊能忠敬シンポジウムでの講演>
「依頼があれば、出前講座をいたします」と高塚さんも語るように、博物館での講演以来、高校や自治会、地域団体など、各地区から出前講座の依頼が入るようになった。また、多可町、三田市や篠山市など他地域の伊能忠敬研究グループとの交流も生まれ、9月にはそのグループの中のひとつ「伊能忠敬笹山領探索の会」の主催による「伊能忠敬 五国足跡フォーラムin篠山」の開催も決定した。
「今年は伊能の没後200年に加え、兵庫県の県政150周年です。大きな節目が重なった記念に、伊能忠敬でご縁がつながったグループが集まり、地域フォーラムができないか。私たちのグループが、そんな提案をしたのがきっかけでした。」
高塚さんたちの呼びかけに、兵庫県内各地の10グループが賛同(7月20日現在)。伊能忠敬をテーマに調査・研究を実践しているグループや、伊能忠敬を敬愛する人たちが集まり、活動報告や意見交換を行ったり、伊能が残した篠山市内の足跡に建つ標柱を巡るといった企画が進められている。
こうして、ふるさとひょうご創生マイスターの称号どおり、高塚さんたちのグループ活動は文化遺産をきっかけにした地域づくりへ、徐々に形になり始めている。
「今の願いは、後継者の育成です。共感していただける人に一緒に取り組んでもらい、次世代へつなげていけたら。」
出版を出発点に様々な活動が広がりを見せる中、地図作りの偉業に加え、多くの人にどうしても伝えたい伊能忠敬の姿が、高塚さんにはあった。
<丹波・三田で活動されている伊能忠敬研究グループとの交流>
「私自身、みんなから『生き生きしている』『同世代の人と比べて頑張っている』と言ってもらえます。だから伊能の生き方に学ぼう、実践しようと伝えたい。皆さんにも転機にしてほしい。」
日本中を歩くことで、隠居(リタイア)後の人生に二度目の花を咲かせた伊能忠敬。高塚さんは、そんな伊能の人生に共感し、自分の生き方を見つけることができたと語る。
「伊能忠敬は、地図を作っただけの人ではありません。いろいろな物事のとらえ方や考え方ができる人だったんです。伊能のように目標や目的をもって行動することで、いくつになっても生き方は切り替えられます。そのためには、一日に少しでもいいから歩くこと。歩いてみると自分の街に関心を持てるようになり、健康にもつながります。運命も健康も、変えられるのは自分だけですから。」
高塚さんが歩く時の心構えは、現場へ行き、現物を現認する「三現主義」と「レッツエンジョイ」の精神。
「『御用』ののぼり旗に遊び心を表現したように、楽しみながら取り組んできたことが、地域の活性化にもつながっていったのだと思います。」
歩けば、人生は変わる。たとえそれが、何歳であっても。伊能忠敬に学んだ生き方を、高塚さんはその身をもって伝え続けていく。