*「かいぼり」とは、農業用のため池を維持管理するための伝統的な作業。農閑期に池の水を抜き、底に堆積した泥や腐葉土を水路を通して海へ流し出す。
谷正昭さん
深い緑を映した水面に、キラキラ輝く光がまぶしい。覆いかぶさる木々の間からのぞく水路では、池の水がさらさらと流れ落ちている。
「田植えの時期には、ふもとの田んぼに農業用水として流れ込んでいく水です。こうしたため池は、それぞれの地区に10から15くらいあります。」
建設コンサルタントとして勤めていた地質調査の企業を早期退職し、生まれ故郷である淡路に帰島した谷さん。農業に関わる地域活動の責任者をしていた時、漁業組合に勤めていた同級生から「樋を抜いてくれる池はないだろうか」と声をかけられた。
「樋とは、池の底にある栓のようなもの。お風呂の栓を抜くように樋を抜いて、池の水を田んぼに入れます。同級生からの相談は、この樋を抜いてため池の底にたまった泥を、海へ流し出すかいぼりをしてほしいということだったんです。」
この相談が、谷さんとかいぼりを結びつけることになった。
路谷池ものがたりを説明する谷さん
江戸時代に造られたため池「路谷池」
実は、漁業組合の同級生が谷さんに声をかけたのには理由があった。
「かつては秋の終わりにため池の水を海へ流していたんですが、海苔の養殖の時期と重なり、かいぼりの泥のせいで養殖海苔の種付けの胞子が網に付かないというトラブルがありました。農業関係者の高齢化だけが理由ではなく、漁業者からの要望もあってかいぼりが行われなくなっていたんです。」
それ以来、徐々に海がやせ始め、海苔の色落ちや海の生産力の低下が深刻な問題になっていった。
「私が相談を受けた前年、工事のために上流の河内ダムの水を海に流したんですが、その年の海苔の色づきがよかったそうです。『これは何故だろう?』と漁業組合が情報を集めるうちに、河内ダムの放水が影響したようなので、ため池の水を流してもらおうという結論になったようでした。池の底にたまった腐葉土などの有機物が混ざった泥水は海の栄養になります。かいぼりを行うことで、ため池の水を栄養分として海へ供給することができるのです。」
そんな期待を漁業者が抱いても、日頃から農業者と密な交流があるわけではない上、過去のいきさつもある。
「同級生だから、私に声をかけやすかったのでしょう」と笑う谷さん。こうして50年ぶりのかいぼり復活へ、谷さんが動き出した。
内ヶ池で行われた「かいぼり」の様子
たくさんの人が参加して行われる「かいぼり」作業
「じゃあ、うちの池でやってみようかな。」
谷さんの説明に、かいぼりへの協力を申し出た田主がいたことから話し合いの場が持たれ、ため池の適正な管理が行えず困っていた農業者と、養殖海苔の色落ちに悩んでいた漁業者が、初めて手を組むことになった。こうして平成20年秋、淡路島にかいぼりが復活することになったのだった。
かいぼりは重労働だ。池の底樋を開栓しある程度まで水を抜いたら、魚を保護のために捕獲し移動させる。次に消防ポンプで水を出し、池の底に堆積している泥を液状化させ、最後は鍬(くわ)や鋤簾(じょれん)などを使って撹拌し人海戦術で堆積物を掻き出していく。かいぼり復活の日は、地元住民のボランティアをはじめ総勢80人が参加した。
「ちょうど行楽日和の秋の日でした。作業をしていると観光バスが停まって、窓から観光客が写真を撮っていました」と谷さんが懐かしそうに振り返った。このかいぼりの成功をきっかけに、淡路県民局洲本土地改良事務所の支援もスタート。平成22年には、土地改良事務所からの提案により「淡路東浦ため池・里海交流保全協議会」を設立。農業者と漁業者からなる合計12名の役員を中心に、ため池保全と里海再生に連携して取り組んでいる。
洲合池で行われた「かいぼり」では県立淡路高校の生徒も参加
県立淡路高校の生徒が実際に作業を体験
復活の日から10年間で、のべ16カ所のかいぼりを行なってきた谷さんたちだが、かいぼり以外の活動も多岐に渡る。例えば、土地改良事務所が中心になって行う「ためいけ教室」では、地元の小学生たちに水を抜いた池の見学や生息している生き物についての学習機会を提供するなど、ため池の機能や役割、維持管理の大切さを伝えるサポートを行ってきた。また、平成30年に開かれた「2018ため池フォーラムinひょうご」では、ため池保全の事例発表も行った。
中でも、谷さんにとって最も印象深いのは、協議会の発足から5年目に開催した「かいぼり祭」だ。 「東日本大震災の年に開催を自粛して以来、再開のきっかけを失ってしまった地元のレンゲ祭に代わり、かいぼりでのイベントを行ってみんなを元気づけ、楽しんでもらいたかったんです。まだ組織も資金も十分ではないときでしたが、なんとか実現したいと思いました。」
力を合わせて準備したにもかかわらず、当日は激しい雨。一時は中止も検討したが、みんなの士気を下げたくないと決行。道路上に用意したブルーシートの即席プールに、イベントのためにダムの水を干し捕獲した鯉を200匹放して子どもたちを喜ばせた。
「ため池やかいぼりのことを多くの人に知ってもらうためのイベントでした。雨の中、協議会関係者をはじめ、農業者、漁業者、婦人部といった地元の有志の方々、関係行政機関(兵庫県淡路県民局、淡路市役所)の皆さんにも積極的に参加していただいた結果、『かいぼり祭』というイベントがみんなの印象に残る一日になり、開催して本当によかったと思いました。」
またある時は、かいぼりをテーマにした映画の撮影・制作協力の依頼を受け、制作会社からの取材やロケの求めに協力。2015年には映画「種まく旅人 くにうみの郷」として全国の映画館で上映された。この映画制作を通じ、農業農村整備事業を広く発信したことへの功績を讃える「第26回農業農村整備事業広報大賞(全国農村振興技術連盟主催)」や、インフラ整備・保全に関する優れた取り組みとして「第2回インフラメンテナンス大賞農林水産大臣賞」を受賞するなど、多くの評価を受けるまでになった。 さらに近年は、かいぼりに取り組む地域が少しずつ拡がり始めている。
「地元では『かいぼりを行いたい』と申し出る人が徐々に増え、理解が進んでいるのを感じます。また洲本市や南あわじ市といった近隣地域をはじめ、明石市や東播磨地域でも、農業者と漁業者、ため池関係者が一緒になってかいぼりを行う動きが出てきているようです。私たち協議会の活動が刺激になっているのだと思います。」
そんな様子から谷さんが感じているのは、かいぼりとは地域づくりだということだ。
「かいぼり祭り」に参加した子どもたち
「かいぼり祭り」では激しい雨の中、ダムの水を抜いて作業を行った
「それまで触れ合う機会が少なかった農業者と漁業者の間に、かいぼりを通じて人脈が生まれました。お互いが理解し合いながら合意できるところを見つけ、手を携えて取り組んでいこうという空気が生まれたんです。」
かいぼりを行うことが決まると、周りの人との団結力が自然に高まると谷さんは言う。
「1回のかいぼりに、多い時なら100名以上の人手が必要になりますが、みんなの気持ちが一つになって初めて成功させることができます。協力し合ったことがきっかけとなり、地域住民の間に連帯感が生まれるため、地域のまとまりという意味でも、かいぼりは大きな役割を果たすのです。」
そしてもう一つ、ため池は地域の財産だと言う谷さん。
「この地域にあるほとんどの池は、子どもの頃から名前を耳にしていた池ばかりです。なじみのあるため池をきれいにすると、自分の部屋を掃除したように気持ちがすっきりします。整備され、水を満々と湛(たた)えたため池は本当に美しい。長い間水が動いていない池は水が茶色く濁ってきますが、水を全部流し出して池の底を空気に触れさせると、自然界の命が宿ったような緑と青に変わります。ため池の水が生き返るような感じです。それを目にすると『いいなあ』と思えるんですよ。」
美しい景観を残し続けたいと話す谷さんを、10年以上も支え動かしてきたものとは何だろう?
「ため池教室」で子どもたちに説明を行う谷さん
「2018ため池フォーラムinひょうご」でのため池保全の事例発表
「今ほど娯楽が多くなかった小学生の頃、かいぼりは遊びの一つでした。泥を流す前に大人も子どもも網を持って池に入り魚をすくうんですが、鯉が足にぶつかってくるんです。『足に当たった!』って大騒ぎしながら追いかけては逃げられる……。面白かったですね。私にとって、ため池に関心を持つきっかけとなったのが、かいぼりだったんです。」
自らもため池を所有しているため、美しくなったため池を眺める田主の喜びがわかると話す谷さん。 「だからこそ会長として10年間も、続けてこられたのかと思います。一つのことをやり始めたら途中で手を引きたくないという、技術者ならではの性格もあるのかもしれませんが。」
そんな想いのこもった取り組みだが、時には思わぬ失敗も招いた。
「底樋が詰まって全く水が流れない、泥も流せない、準備作業を2時間も3時間も繰り返してもらちが明かない。貴重な時間を使って集まってくれたボランティアの人々を堰堤(せきてい)の上で待たせ、ただ時間だけが過ぎて終わってしまったこともありました。また、実施直前になって突然『もうやらん!』と池の所有者が言い出し、中止せざるを得なかったこともありました。みんなの気持ちが一つになり、同じ方向に向かう大変さを考えさせられることも多かった」と谷さんは振り返る。
こうした様々な日々を積み重ねてきた10年間、決して順調に進むことばかりではなかった中、谷さんには自分を元気づけてきた言葉があった。
「第2回インフラメンテナンス大賞」にて農林水産大臣賞を受賞
「どんなに想いがあっても、いつも順調に進むわけじゃない。ショックを受け、へこたれ、時にあきらめても、本当に叶えたい気持ちがあるのなら、何度挫折を繰り返してもいつか浮上するきっかけはやってくる。苦しい時も思い通りにいかない時も、努力さえしていればいつか花開く時が来る。」
「そんな想いを『日はまた昇る』という希望を見出す言葉と気持ちに代えて、取り組んでいきたいと思っているんです。」とはにかんだ笑顔で話す谷さん。
さらに今年度は漁業者側からの提案を受け、新たなことに挑戦するという。
「通常かいぼりは、農閑期に入る前の秋の終わりに行いますが、養殖海苔の色落ちが現れ始める2月頃、冬のかいぼりに初めて挑みます。」
新たなチャレンジを照らす日は、きっと大きく力強い。
(公開日:R1.06.25)