世界最高峰のオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。そのコンサートマスターとして世界中で活躍する一方、毎年、世界の一流演奏家たちを赤穂市・姫路市に招き、1週間に渡る音楽祭を開催する若き日本人音楽家がいる。
ヴァイオリニスト樫本大進さんにお話を伺った。
樫本さんは父親の海外赴任先のロンドンで生まれ、3才からヴァイオリンを始める。その後もニューヨークやドイツの名門音楽学校で学び、子ども時代のほとんどを海外で過ごす。小さな頃から天才との呼び声は高く、10代で数々の国際コンクールを制し、ヴァイオリニストとしての地歩を築く。そして、平成22年には、31才の若さで世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第一コンサートマスターに就任。コンサートマスターとは、指揮者とオーケストラメンバーの橋渡し役としてオーケストラをとりまとめるポジション。ドイツを拠点に自身のソリスト活動も行いつつ、並行して一流の演奏家揃いのベルリン・フィルを率いて、世界各地でコンサート活動を展開している。
そんな樫本さんが、自分にとって、赤穂は日本のふるさとと言う。幼い頃から、毎年のように訪れていた母親の故郷であり、とりわけおじいちゃんに会えることを楽しみにしていたのだという。
「子どもにとっておじいちゃんやおばあちゃんの存在って特別なものでしょう?」と笑う樫本さん。
「僕が物心ついたとき、自分にとっての祖父母と言えば赤穂のおじいちゃんだけだったこともあって、とにかく大好きで、大好きで」夏休みになると祖父に会うために、赤穂までやってきて、休みを過ごしていた。
赤穂小学校に体験入学をしたこともある。その時の印象を聞くと、言いづらいなぁと笑い、こう話した。
「教室で発言するときは、手を上げて、先生にあてられてから、立ち上がる。それから話さなきゃいけなかった。自分が普段通っていたアメリカの学校との違いにびっくりしたことをよく覚えています。他にもいろいろあって…。だから日本の小学校はとっても厳しいという印象!」
「日本の学校給食も珍しかった。クラスメイトとの牛乳の早飲み競争が楽しかった」と、やんちゃなエピソードも教えてくれた。
子どもの頃から旅行が大好きだった樫本さん。赤穂の祖父のもとには、一人で電車を乗り継いで向かうこともあった。
山を越え、赤穂のまちが見えてくる瞬間が一番わくわくしたという。
「今でも赤穂に向かうときは電車。トンネルを抜け、右手に山を見ながら、川を越え、赤穂のまちが見え始める頃、電車の窓から見える風景が子どもの頃の思い出と重なっていく。赤穂に帰ってきたなぁと感じる瞬間」と目を細めて語る。
欧米で育ち、また演奏家として世界各地を巡ってきた樫本さん。ヨーロッパでは、クラシック音楽が日々の生活に根ざした身近な楽しみとして親しまれていることを肌で感じてきた。
しかし、「日本では田舎に行けば行くほど、クラシック音楽の存在が遠くなる。クラシックは堅苦しいものでも、遠いものでもないと伝えたい。日本でも、クラシック音楽が日々の暮らしや人生にちょっとプラスになる、そんな身近なものになってほしい」
そんな樫本さんの願いがふるさと赤穂で動き始める。
平成13年、樫本さん22歳の時のこと。赤穂市市制50周年を記念し、ベルリン交響楽団と樫本さんの共演によるコンサートが開催された。この機会に、樫本さんは20挺のヴァイオリンを市へ寄贈する。赤穂の子どもたちに、一人でも多く楽器に親しんでほしいと願ってのことだった。
さらに樫本さんは赤穂の知人たちに夢を語る。「ヨーロッパの各地で開かれているような、そのまちならではの魅力あふれる、市民音楽祭が赤穂でできないだろうか」
そんな樫本さんの思いを伝え聞いた、市内のクラシック愛好家が中心になり、音楽祭開催に向けて熱心な活動が始まる。前例のない催しに、とまどいの声も多かったものの「一流の音楽が、ランチ代程度で気軽に楽しめる音楽祭を」という樫本さんの夢は、賛同者を増やしていく。
そして平成19年、市の協力や企業・個人の協賛を得て、音楽祭の開催が決定。
コンセプトは『一流の演奏家による室内楽を市民が気軽に楽しめ、奏者と聴衆の距離の近い音楽祭』。樫本さんが直接呼びかけをすることにより、出演者が無償で出演してくれるということもあり、入場料は日本で行われる室内楽のコンサートとしては異例の1,000円。舞台として市内のコンサートホールだけでなく、赤穂城跡に特設野外ステージも用意された。
こうして樫本さんを音楽監督に迎え、今までにクラシック音楽に触れたことがなかった人も気軽に足を運べるような「赤穂国際音楽祭」が実現したのだ。姫路市からも賛同を得たこの音楽祭は、その後、翌20年は姫路で、翌々21年は赤穂で、と両市で交互に開催されることになる。姫路市も、樫本さんにとっては思い出深いまち。樫本さんは8歳の頃、モーツァルトの協奏曲で初めてオーケストラデビューを果たした。その時の舞台が姫路市だったのだ(共演は姫路交響楽団)。
以来、音楽祭は毎年開催されて今年で7年目を迎えた。平成24年からは赤穂市と姫路市の共同開催となり、「赤穂国際音楽祭・姫路国際音楽祭」として、より規模が増したこの音楽祭。樫本さんが名付けた「Le Pont(ル・ポン)」の愛称で親しまれ、赤穂や姫路市民はもちろん、世界の実力派アーティストによる室内楽を楽しみに全国各地からも多くの人が訪れる。
「Le Pont(ル・ポン)」はライフワークのひとつであると語る樫本さん。忙しい日々の中でも、毎年開催に向けての準備を怠らない。
まず、世界各地の親交のある演奏家たちに自ら出演を呼びかける。この音楽祭は樫本さんを含む全ての演奏者たちの出演料は無料。赤穂・姫路の魅力を丁寧に伝え、ボランティアで参加してくれるよう依頼するのだという。
「演奏家にとって日本はとっても魅力的。良いホールがあって良い観衆が多い日本でぜひ演奏したいって言ってくれる。赤穂だって姫路だって初めから知っている人はまだいないけど、一度来ればまた来たいと言う。もちろん、おいしい日本食と日本酒を用意しないといけないけどね。」
ただ、出演してくれれば、誰でもいいというわけではない。期間中、共に楽しんでこのまちでしか聴けないレベルの高い音楽を作れる人でないといけないと、人選に考えを巡らせる。そして自ら約1週間に渡る音楽祭の公演テーマを決め、演奏曲目を選び、リハーサルスケジュールの組み立てまでも行う。
音楽祭が始まると、ドイツから赤穂に駆けつけて、時差ボケの体を休めることなく、到着してすぐ準備のためにスタッフとともに動き回る。次々に到着する演奏家たちの心や体の調子に気を配ることも忘れない。
そしてもちろん、全ての公演において樫本さん自身も出演する。
音楽祭では毎回、市内のヴァイオリン教室「ハーモニーヴァイオリンアンサンブル教室」の子どもたちと樫本さんの共演も見られる。実はこの教室、樫本さんが寄贈した20挺のヴァイオリンがきっかけとなってスタートした。樫本さんの思いを生かすために、市内のヴァイオリン講師によって、立ち上げられたのだという。教室のスタートから、今年で11年目を迎える。
「子どもたちとは毎回必ず一緒に演奏するようにしている。彼らとってもかわいいんですよ。毎年参加している子もいて、1期生の中には身長抜かれちゃった子もいる。」とにこにこ顔で教えてくれた。
「自分が音楽祭を始めるなら赤穂だと思っていた。子どものころは自分のルーツなんて考えなかったけど」音楽祭の開催を通じて、自分のルーツが赤穂にあるという意識を強くしていったと語る樫本さん。
「やるなら一度限りでは意味がない。ここでずっと続いていく音楽祭をつくりたい」と、聴衆も演者もまた来たいと思えるような特別な感動に満ちたひと時をつくることに力を尽くす。
市内のホールや特設会場で開かれるコンサート。特に目玉となるのは野外ステージでの演奏。これまでに赤穂城跡、閑谷学校、姫路城二の丸や書写山圓教寺でコンサートが開かれた。
「その場その場で聞こえてくるいろいろな音。例えばグァーグァーという鳥の鳴き声さえもひとつの音楽になる。そうした周りの音も含めた、全てがとけ合ってひとつの“まる”になるような、そんな瞬間が生まれたのを感じてきた。音楽家としてもそんなロケーションで演奏することはめったにない。ここでしかできない音楽祭を作っているという自負はある」とまっすぐに語った。
樫本さんの好きな言葉は「hope」。
「なきゃいけないものだよね」と語る。
平成23年からは音楽祭の会期中、東日本大震災復興支援のチャリティ公演も欠かさず行っている。音楽祭の愛称「ル・ポン」はフランス語で「架け橋」という意味。「音楽を架け橋に、人と人のきずなを大切にし、平和で幸せな世界を創ろう」という樫本さんの希望がそこにある。大好きなおじいちゃんのまちを音楽でいっぱいにすることが、大きな望みへの第一歩だ。