伊丹に生まれ育った荒木宏之さんは、阪神・淡路大震災後のまちづくりを、自分たちの手で進めていきたいという思いから「伊丹まちづくり会議」を作った。まちづくりの拠点として開店したクロスロードカフェは、伊丹を好きな人たちが集まり、まちと人が交差する場所になった。まちの活性化のために、様々なイベントを企画。市内外に「このまちが好き」と言う“伊丹ファン”を増やすとともに、まちづくりに取り組む若者たちの活動を支えている。
荒木さんの生家は、曾祖父の代に伊丹の宮前商店街によろず屋「荒木商店」を構え、荒木さんの生まれる2年前(昭和28年)に現在の三軒寺前広場に面した土地に移り住んだ。4代目店主となった荒木さんは、洋服、洋品雑貨、化粧品を販売するおしゃれの店「フミヤ」を経営していた。(今年1月末に閉店)
平成7年1月17日。この日は、家族みんなでスキーに出かけるつもりで、早朝から起きていた。5時46分、荒木さん一家が住むマンションの7階は大きく揺れた。「船が荒波に揺れるような状態が長く続き、生きた心地がしなかった。ひたすら家族の名前を呼び続けた」
阪神・淡路大震災で伊丹のまちは、大きな被害を蒙った。震災の翌年、若い力を結集してまちの復興に取り組むため、荒木さんを含む8人で伊丹商工会議所青年部を誕生させる。8人でスタートした青年部は、ひとり、またひとりと、被災したまちの復興を考える同世代の人が増え、3年で100人まで広がった。平成10年には活動内容やメンバーの思いを発信する機関誌「ぶれいくするう」(break throgh)を発刊。時代の変わり目の大不況の中で風穴を開け、よどんだ空気を新しい空気に入れ替えようという意味を込めて名付けた。
商工会議所の青年部として行政のまちづくり会議に出る機会が増えた荒木さん。
「行政主催のまちづくり会議では、結論は学者が決めている。何かを始めようと行政に持ちかけると、一定の枠の中でしか動けない」と感じた。
震災後、広場や建物は整備されたものの、どのように使うのかを市民自身が考えないといけない。行政に頼らずに自分たちの力でまちづくりを進めたい。そうした思いから、地元のシンクタンクが開催する「伊丹学講座」で、伊丹の歴史・文化を学んでいた人を中心に、平成13年『伊丹まちづくり会議』を発足。「伊丹を元気にしたい」との志を共有する仲間が集まり、新たな活動が開始した。
荒木さんは、『伊丹まちづくり会議』の活動拠点となる場所が必要と考え、店の隣に喫茶店を開業させる。JRと阪急、東西ふたつの伊丹駅の真ん中にあり、伊丹シティホテルから猪名野神社に続く南北の道が交わる所にあることから名付けた「クロスロードカフェ」が平成14年8月30日にオープン。そこは、道が交わり、人々が交わるところとなった。
カフェでは、集まった人たちがその日のテーマを決めてディスカッションする「哲学カフェ」やミーティングなどが頻繁に行われ、魅力的なまちづくりに取り組む人を招いた講演会も開催している。まちづくり会議のメンバーをはじめ、行政担当者や大学生なども参加。熱心に学びを重ねる姿に、荒木さんは「未来の伊丹の種が芽生えている」と感じている。
また、全国からも“伊丹のまちづくり”を学びたいという人たちが集まってくる。レクチャーを受けた後、まち歩きや、まちづくりのイベントを体験。参加者たちは「“まちの元気の素”をもらった」と言い、それぞれが自分のまちの設計図を描き始めるという。
昔は、遠方から買い物に来る人が多かった伊丹だが、徐々に訪れる人が減っていった。「物を置くだけでは、人は集まらない」。荒木さんを中心とした「伊丹まちづくり会議」の面々は知恵を絞り、「まちのポテンシャル(潜在能力)を高め、シビックプライド(市民としての誇りや愛着)を醸成することが必要」と、様々な事業に参画していった。
函館で成功した「まちなかバル」。市の職員が、日本酒発祥の地である伊丹で開催したいと提案し、まちづくり会議のメンバーも関わっている伊丹市中心市街地活性化協議会が、「伊丹まちなかバル」に取り組むこととなった。「清酒発祥の地が誇るええ店とええ人の出会いを」というキャッチフレーズを掲げ、多くの店が日本酒を置いているのが特徴となっている。市民ボランティアが広報活動をしたり、ミュージシャンと市民サポーターがチームを組んで「流し」のように演奏しながら店をまわるなど、まちを挙げて取り組んだことで、市外の人も含め予想をはるかに超える人たちが集まり、大成功を収めた。年2回開催され、店舗や来客者の数が日本最大級の規模となったバルは、一時的なイベントにとどまらず日常の集客にもつながり、まちを活性化させている。荒木さんは、「バルをきっかけに商店街などが団体の垣根を越えて活動し、横のつながりが強固になった。地域のことを考える人たちが増え、次々とイベントを打ち出している」と、市民や団体などが一体となってまちを盛り上げていることを嬉しく思っている。
次々に企画されるイベントは、若い人たちがその中心を担うようになり、また、30代の青年たちが商業連合会の理事になるなど、伊丹では次の世代が育ってきている。市内の商店会等で組織する伊丹商店連合会の会長に就いた荒木さんは、頑張る若者の活動を支えている。
月に1度、日曜日の朝に開催される「イタミ朝マルシェ」の実行委員長を務めるNPO法人いたみタウンセンター副理事長の南方忠司さんは、「荒木さんは、すべて若い者に任せ、応援してくれる。困ったときには、全力で支えてくれる頼もしい先輩です。よく『今に満足することなく、5年10年先のことを見据えて動け』と叱られています」と言う。
昨年には、伊丹の若手経営者などが、昆陽池で音楽フェスティバル「GREEN JAM」を開催。その後、荒木さんの後押しで「伊丹商店連合会青年部」を発足した。荒木さんから「何か面白いことをやれ」と言われた現青年部代表の岩花玄さんは、音楽で伊丹全体を盛り上げることを考え、中心部から離れた場所でのイベントを企画。荒木さんは相談に乗ったり、協力してくれそうな人に繋いだりしてバックアップした。岩花さんは、「荒木さんは開拓し、道を作ってくれる人。若い人たちの不安をなくしてくれる心強い存在です」と話す。「確実に若手が育っている」と目を細める荒木さん。「“伊丹をもっとおもしろくしたい”という若い世代のやる気が結実するように支えていきたい。10年後の伊丹はもっと変わっているはずです」
荒木さんは、阪神・淡路大震災の時、伊丹が全国から多くの支援を受けたことを「決して忘れない」と言う。東日本大震災の後、沈みがちな日本を「とりあえず伊丹から元気にしようや」と、「伊丹郷町屋台村」を震災4か月後に開始。売り上げの一部を東北へ届けるなど、息の長い支援を続けている。
「どうすればもっと面白くなるか?」「どうすれば復興支援に役立つか?」。1人ひとりの思いを重ねてひとつの形をつくることが、活動に繋がっていく。伊丹まちづくり会議のメンバーは、「VITAMIN」いう綴りに「ITAMI」が含まれていることから、活気ある伊丹のまちを「VITAMIN CITY」と呼んでいる。荒木さんは「本当に伊丹が面白くなってきた」と、若い力を支え、まちを元気にする“ビタミン”を届けている。