ひと・まち・企業がひとつになって育んだ
「信頼」という名の地域防災力。
自分たちのまちは、自分たちで守る!
ひと・まち・企業がひとつになって育んだ
「信頼」という名の地域防災力。
自分たちのまちは、自分たちで守る!
神戸市長田区の南東部。まっすぐ伸びる路地には、新しい集合住宅や昔ながらの長屋、町工場、商店がひしめき合い、下町の営みが広がっている。
住民による公害反対運動からまちづくりがスタートして50 年。2,263 世帯3,749 人(令和元年12 月現在)が暮らすここ真野地区は、先駆的なまちづくり地区として全国に知られている。
平成7年に起こった阪神・淡路大震災では、長きにわたり育み続けたコミュニティの力で復興を力強く成し遂げた。その中心的役割を果たしてきたのが、「真野地区まちづくり推進会(代表 馬場廣志、以下「推進会」)」だ。
発足以来40 年余り、自治会・企業・行政との協働による真野のまちづくりの根幹を担い続けている。
【真野地区まちづくり推進会】:昭和55 年、住民主体・行政支援に基づくまちづくり活動のための組織として発足。
2年後、神戸市との「まちづくり協定(*)」締結により、主に建物や道路などハード面に関わる再開発を中心に、まちづくり活動の基盤を担ってきた。
様々なイベントの企画・運営を通して地域福祉の向上をめざす「真野ふれあいのまちづくり協議会(以下「ふれまち」)」、地域の防災活動を通じて共助の精神を育み、緊急時に活動できる組織づくりを目指す「真野防災福祉コミュニティ(以下「防コミ」)」と並ぶ真野地区まちづくり活動の柱の一つとして、16 の自治会ならびに老人会やPTA といった地区内の諸団体と連携を図りながら「人口の定着」「住宅と工場の共存・共栄」「うるおいのある住環境」の実現に取り組んでいる。
*まちづくり協定:道路や公園などの整備に加え、市民・事業者・行政による「協働のまちづくり」を進めるため、「神戸市地区計画及びまちづくり協定等に関する条例(まちづくり条例)」(昭和56年制定、平成元年改正)に基づき、市長とまちの間で結ぶ協定。真野は協定を締結した第1号地区にあたる。
50年前から始まった真野のまちづくり
昭和40年代初めから全国規模で問題となった公害。
ひどい大気汚染により、真野小学校児童の4割にぜんそく症状が出るなど、真野地区の人々を苦しめていた。
住民たちは神戸市への陳情や企業との交渉を重ね、周囲の工場の移転を実現。10年の歳月をかけ公害追放を実現した。
「これをきっかけに、自分たちのまちを自分たちの手で良くするための活動が始まりました。」と清水光久事務局次長は語る。
まちに草花を植えたり、工場跡地を公園にするといった緑化活動や、ボランティア組織による高齢者への入浴や給食サービスなど、公害追放運動から15年余りにわたる先駆的なまちづくり活動が進む中、昭和55年には「20年後をめざす将来像 真野まちづくり構想」を作成。その実現のための組織として発足したのが「真野地区まちづくり推進会」だ。
地域連携のまとめ役、真野地区まちづくり推進会の誕生
現在の推進会のメンバーはおよそ70人。役員30人には地区の16人の自治会長をはじめ、企業、学校も名を連ね、地域一体となってまちづくりに取り組む組織だ。
主な活動は、住宅の建築確認や空き地の活用、区画整理などに関しての相談や決定。
また、まちづくり活動の事務局として、県内外からの視察の受け入れや、JICA(*)の研修生支援、立命館大学の学生たちによる地域学習の調整役も担う。
さらに、年4回の広報紙の発行や、SNSを使った地域情報の発信も大切な役割だ。
推進会の活動で最も特徴的なのは、地区の諸団体が取り組む事業全般において、協議や相談の窓口を果たすことで、全体を俯瞰的に捉えたまちづくり計画を推し進めていることだ。それを中村博文副代表は「真野地区まちづくりの根っこ」と表現する。
「私たちはどんな行事の運営も、すべて住民による実行委員会を組織します。推進会は、ふれまちや防コミ、諸団体がひとつになって取り組むための調整役を務めているんです。」
発足から15年、真野地区ならではのまちづくりが着々と形作られていた中、平成7年1月17日午前5時46分。真野のまちと人々を阪神・淡路大震災が襲った。
*JICA(ジャイカ・Japan International Cooperation Agency):(独法)国際協力機構。外務省所管の独立行政法人で、海外の開発途上地域に対し技術援助や資金供与などを行ない、その地域の発展に協力する。
震災にも強かった、真野の地域力
未曽有の大災害は、真野地区にも大きな傷跡を残した。
19人が犠牲となり、43戸が焼失。建物の全半壊は全体の3割にも及び、震災直後は1,350人が避難所生活を余儀なくされた。
この危機的状況の中、地域のことは地域住民自ら考え取り組むことで培ってきた、真野の地域力が大いに発揮されることになった。
地震発生から3日目、当時の推進会の代表を本部長に、真野地区の災害対策本部が立ち上がった。
小学校の職員室を使い、各自治会の会長や団体の代表者、住民有志によって毎晩話し合いが続けられ、自治会主体によるスムーズな避難所運営を実現したのだ。
「当時、区役所に用意されていた救援物資の受け取り現場は、強い者が勝つといった状況でした。真野では『弱い人のところに絶対届けるんだ』という信念のもと、救援物資を対策本部がまとめて受け取り、自治会単位で人数に合わせて配分。一人ひとりに行き渡る体制をつくり上げました。」
当時を振り返りながら、まちづくりプランナーの宮西悠司相談役が語った。
青少年育成協議会・真野支部支部長の伊藤ゆかりさんは「男性たちが対策本部へ行くと、町内に残るのは女性や高齢者たち。
すると『お水を汲んできてあげよう』『今日は6丁目でお風呂に入れるよ』って、自然に一体感が生まれました。自治会の皆さんが、まちのためにずっと頑張ってきてくれたことを知っているから、私たちは私たちにできることをしようと思えたんです。みんなでまちづくりに取り組んできた成果です。」と話す。
自治会を中心とした対策本部、弱者を大切にした救援体制、住民同士の共助の想いに加え、もう一つ人々の役に立ったもの。それは「被災後の地区に大きな団結力をもたらした」と清水さんが言う、地域の情報だった。
住民の連帯感を生んだ、176枚の「真野っこガンバレ!!」
震災から50日が過ぎた3月6日。地区の2,200戸に向けて、対策本部から1枚の広報紙が配られた。「阪神大震災真野地区復興まちづくりニュース真野っ子ガンバレ!!」第1号だった。
この広報紙は、清水さんを編集長にボランティアスタッフたちの手で週に1回(101号からは月に2回)、176号まで発行された。
「緊急時には、みんなが求めている情報を届けることが大切です。義援金や建物の安全調査、仮設住宅の情報、対策本部の支援活動や被災者の声などを届ける『真野っ子ガンバレ!!』が、人々のよりどころになっていました。時の経過とともに地域行事の案内や身近なまちの話題、自治会長の紹介、地元で頑張っている人への励ましなど、少しずつ復興につながる記事を掲載していきました。」
震災の情報を共有するだけでなく、地域の組織がどんな活動を行い、地域が今どんな状況にあり何が課題なのかを知らせることで、全住民の連帯感を深め活性化を図ってきた「真野っ子ガンバレ!!」。 「災害時にどんな行動をとればいいかがわかる、まさに教科書です。」と清水さんは胸を張る。
その後、推進会ではバックナンバーを縮刷版として編集し、現在は「まのっこだより」という広報紙を年4回発行。情報共有の活動は、その後のまちづくりにも引き継がれている。
さらにこの震災は、企業との共生力が地域にしっかりと育まれていたことを改めて実感させた。
企業との絆がまちを救った!
震災では、長田区のいたるところで火の手が上がり、4,759棟が全焼する被害となった。
しかし真野地区では住民たちが自らの手で消火し、延焼を食い止めることができた。
その大きな力になったのが地元企業だった。
自衛消防隊として住民たちと力を合わせて消火にあたったことで、大きな火災から免れた。
「40年前、住宅と企業が共存できるまちにしようという目標を掲げ、小さな町工場も大きな企業も自治会の一会員として、丁寧に付き合う努力を重ねてきました。そうした私たちの自治会活動を信頼していただいた結果だと思っています。」と、伊藤鉄夫副代表は話す。
震災後、企業と住民の距離は一層近くなり、住民たちが主催するイベントに地元企業が参加したり、企業が主催するイベントに住民を招待するなど交流が続いている。
こうした震災の教訓や復興の経験を発信し、次の世代へ継承する場として取組んでいるのが防災活動だ。
防災活動を通して伝える地域防災の大切さ
真野地区では、1月17日には地元企業三ツ星ベルト株式会社が、3月には各コミュニティの連携による総合防災訓練を実施。
企業と住民が一緒になって消火・放水・救護・炊き出しや、要援護者の避難誘導訓練などに取り組む。
一方、小学生たちは「地域で学ぶ、地域を学ぶ、地域から学ぶ」のスローガンのもと、防災教育や防災避難訓練の他、震災学習の一環として「1.17震災祈念集会」に住民・企業と共に参加する。
さらに、地域防災を学ぶイベントも企画。例えば、青少年協議会が主催する「マノウィン」と名付けたハロウィンイベント。
小学生たちが仮装して地区内の子ども110番の家をまわり、お菓子をもらうというもの。
いざという時助けを求められる場所を、遊びながら頭に入れることができる。
「毎年、推進会に相談しながら企画しています。4回目の今年は、こども110番の家に実際に助けを求める訓練を行いました。
毎年、店舗のみなさんは快く協力してくださり、企業はお菓子を提供してくださいます。子どもたちの安心・安全をみんなが一緒に見守る地域なんです。」と伊藤ゆかりさん。
子どもたちだけでなく、保護者にも震災を知らない世代が増え、新しく建てられた住宅には初めて真野に暮らす住民も現れ始めた。
地域防災の新たな課題として据えるのは、次の世代へ震災と復興を語り継ぐことだ。
25年目の課題、未来へ残す震災の教訓
これまで真野地区では、震災から10年目、20年目といった節目となる時期に合わせ「感謝の集い」を開催。
震災を検証し、そこで得た教訓を様々な地域で共有してほしいとの想いで、様々な人を招待しながら取り組んできた。
25年目を迎える今回は、震災を経験した世代と知らない世代が一つのテーブルを囲んで、震災・復興・地域づくりについて語り合う、地元の人々に向けた祈念行事を開く。
「災害に対応できるコミュニティをつくるためには、過去の経験を共有するだけでは足りません。危機が起きた時、事前に想定しておく項目が多いほど、まちの再興は容易になります。」と清水さんは話す。
震災から25年、公害追放運動から半世紀。
住民一人ひとりが地域に向き合い、地域と関わり、世代交代を繰り返す中でも途切れることなくまちへの想いを次の世代へつなぎ続けた背景にあるもの。
それは住民同士の「信頼」だった。
お互いを信頼する力、それが真野の地域防災力
「50年前、公害による切羽詰まった状況を、自分たちの手で克服したことで、自治会と住民の間に信頼が生まれました。」と宮西さん。
清水さんも「公害や震災は、我々がつくりだしたのではなく、課題の方からやってきたもの。手をこまねいていては、まちが疲弊してしまうため、自然と住民自らが立ち向かっていくコミュニティができました。推進会や自治会がてきぱきと方針を示せるのも、住民組織が速やかに実践できるのも、これまでに培われてきた信頼によるものです。」と話す。
そんな信頼関係を地域に築いてきたもの。
それは50年前から一貫して大切にしてきた「どんな議論も多数決で決定しない」という姿勢だった。
「少数意見を大事にしながら、何度でもとことん話し合います。それぞれの意見をしっかり出し切り、みんなで聴き入れ、相談を重ねること。それが地域の一体感を生んでいるんです。」と宮西さんは語る。
そうした積み重ねによる信頼の一例が、平成25年度に行った全世帯アンケート調査。回収率90%という驚異的な結果となった。
「回答から見えたまちづくりの課題に基づき、このたび20年後のビジョンを描いた第4期まちづくり計画が生まれました。『これからの真野プロジェクト』として、推進会が中心となって住民や工場、企業、行政に働きかけながら実現していきます。」と話す清水さん。
震災からの復興を通し、人と人との繋がりと地域が一つになった支え合いこそが、まちの安心・安全の基礎、すなわち地域防災力であることを示した真野地区。自治の力を継承しながら、真野のまちづくりは次の20年に向かって前へ前へ進み続ける。
(取材日 令和元年11月11日)