小林林産 代表

すごいすと
2015/02/25
小林温さん
(62)
兵庫県宍粟市
小林林産 代表
兵庫県の中西部に位置する宍粟市。一宮、山崎、千種、波賀の旧4町が合併して誕生した同市は、面積の9割を森林が占め、古くから林業が盛んな地域だ。

旧山崎町で生まれた小林温さんが、母方の家業である林業に従事するため、会社勤めをしていた大阪から宍粟に戻ってきたのは、ちょうど30歳になった時のこと。以来、受け継いだ旧一宮町生栖(いぎす)地区に所有する山を中心に、地域の山林を守り育ててきた。

近年では、災害に強い作業道整備の必要性を実感し、「壊れにくい道づくり講習会」を定期的に開くなど、県内で高度な知識や技術を持つ林家(りんか)の集まりである指導林家会会長として、持続可能な林業の振興に取り組んでいる。

写真:宍粟市小林林産代表小林温さん全身写真

30歳での転身

小林さんが30歳で林業に転身した理由は、母方の祖父が心血を注いだ山林経営を受け継ごうと決めたことだった。

祖父から山林を受け継いだ叔母夫婦には子どもがおらず、小林さんに養子の話が持ち上がった。その頃、大阪の会社に勤めて結婚もしていたが、林家だった祖父との幼い頃の楽しい思い出や、実家の山林を誰かに継いでもらいたいという実母の思いが、小林さんの背中を後押しした。

義理の父となった叔父は、所有する山林の管理を人に任せていた。しかし小林さんは、林業を継ぐなら自分で山に入って働きたいと考え、それを条件に養子となった。

まちで生まれ育った小林さんは、山の仕事についてはまったくの素人。そのため会社を辞めて、磨き丸太で有名な京都・北山杉の産地で2年間修行に励んだ。

「毎日、地下足袋を履いて山へ行く習慣と体力が身に付いたのは大きかった」と笑いながら当時を振り返る。

写真:ヘルメットを被りオレンジ色のジャンパーに身を包む小林さんの後ろ姿

「WE LOVE forest」の文字が入ったジャンパーを着て指導林家会主催の活動に参加する小林さん

順風から一転、逆風へ

小林さんが仕事を始めた当時、日本の林業では立木をすべて伐採する「皆伐」というスタイルが主流だった。だが植林から次の伐採まで数十年もかかるやり方は、木材価格の低落でコストが見合わなくなるなどデメリットが多い。

そのため、小林さんは先代の皆伐方式から、一部の木を間引く「間伐」に変更した。間伐方式は、継続的に木材を市場に出すことができ、残った木を大きく育てることが可能になるからだ。

また木の搬出も、ワイヤーを使う架線集材という方法から、山の斜面に付けた作業道による方法に切り替えた。これによって搬出作業の効率が格段に上がり、30歳からという決して早くはないスタートだったが、仕事は軌道に乗っていった。

ところが順風満帆のように思えた矢先、相次いでトラブルに見舞われる。

まず平成16年5月、地域を襲った集中豪雨によって所有する山林が被害を受けた。小林さんの住む生栖(いぎす)地区では人的被害は免れたものの、自分が付けた道が2ヶ所、土砂崩れを起こしていた。

「現場を見た人から『これは天災ではなく人災だ』と言われたのはショックでした。幸い、道の下にあった民家まで土砂は流れませんでしたが、一歩間違えれば自分のせいで二次災害を引き起こしていたかもしれません」

さらに同じ年の10月、今度は台風23号による強風で、110haある所有山林のうち10haもの立木が倒れ大損害を受けた。数年にわたる時間をかけて間伐をしてきた山だっただけに、経済的な損失も大きかった。

手塩にかけて育ててきた山を立て続けに襲った災害に、すっかり意気消沈してしまったと小林さんは語る。

写真:山の遠景。がけ崩れの後が残っている。

大雨による作業道崩落跡。今も爪跡が残る現場を見ることが戒めになると小林さん

写真:高く育った木が一面に倒れている。

平成16年の台風26号による倒木被害直後の様子

家族による山林経営の始まり

ところが、台風による倒木処理に頭を抱えていた頃、大学生だった次男の亮さんが不意に手伝いを申し出てきたことで、それまでの悪い流れに変化の兆しが見え始めた。

亮さんが自分の将来についていろいろと模索していたことを初めて知った小林さんは、何度も話し合った結果、大学を辞めて山で働くことを認めた。

「ありがたいという気持ちの反面、親として複雑な思いもあった」という小林さんだが、そのおかげで台風被害の後始末に集中できた。同じような被害を受けた山仲間たちと共に、地元の木材市場から借金をして共同購入した高性能の林業機械をフル稼働させ、倒木の処理に奔走した。2年半後には借金も完済することができ、最大のピンチを乗り切った。

亮さんという後継者を得てから4年後、またも新たな働き手がやって来た。亮さんが結婚し、その妻の恵さんが山の手伝いをするようになったのだ。

結婚するまで林業とは縁のなかった恵さんも、今では複雑な操作が必要な高性能機械の運転を担当している。体力的に厳しい上、冬は寒く夏は暑い山仕事だが、「私の定位置は冷暖房完備だから大丈夫」と屈託なく笑う。

近頃では「林業女子」という言葉が生まれるほど、林業に興味を持つ女性の存在が注目されるようになった。その先駆けとして過去何度かメディアに取り上げられたこともあった恵さんだが、山での仕事については「夫に怒られないようにやるだけ」と謙虚に話す。

3人態勢になって5年が経った現在、恵さんはもはや小林林産にとり欠かせない存在になっている。

写真:林業用機械(ウインチ付きグラップル)に乗り込み操作する恵さん

小林恵さん。高性能機械の操作もお手の物

写真:家族3人の集合写真

小林さんが理想とする家族での山仕事も10年目に入った。

指導林家として地域の林業を担う

小林さんは山仕事の一切を家族で行うことで堅実な山林経営を行うかたわら、林家として地域でのつながりも重要視する。

平成11年、兵庫県の指導林家に認定された小林さんは、その後、指導林家会の会長に就任し、公の場で活動する機会が増えた。指導林家とは、兵庫県の認定を受けて県内で林業振興のための指導的な役割を果たす人物のことを指す。

指導林家会の活動の中で小林さんが最も力を入れているのが、平成21年から始めた「壊れにくい道づくり講習会」だ。きっかけは台風によるあの作業道の崩壊だった。

事故後、いつまた同じことが起こらないとも限らないと考えた小林さんは、道づくりの大家として全国的に知られる大阪の指導林家・大橋慶三郎さんに師事した。それを契機に大橋さんを宍粟に招き、実践的に道づくりを学ぶ場を設けた。現在は、大橋さんのお弟子さんが講師を引き継ぎ、毎年続けている。

写真:山道での講習会。30名ほどが話に聞き入っている

講師(左から2人目)を招いての「壊れにくい道づくり講習会」

写真:山の中の作業道

周到な調査と綿密な計算により付けられた作業道

小林さんはこれからの林業にとって、壊れにくい道づくりは必要不可欠だと力説する。長年にわたって作業道が使用可能になることで、作業効率の改善やコスト軽減をもたらすだけでなく、災害に強い山になり環境保全にも貢献できる。

「結果として、我々林家が本来果たすべき『森林を守り育てる』ことにつながる」という小林さんの言葉から、道づくりにかける並々ならぬ意気込みが伝わる。

指導林家会は、他にも林業を志す人向けに研修会を開催したり、イベント会場では一般の人向けに林業機械やチェーンソーなどの操作体験コーナーを設けるなど、林業界振興のための旗振り役も務めている。

写真:研修生の話を聞く小林さん

兵庫県指導林家会主催の林業体験では、26名の研修生のうち
小林さんが16名を受け入れ、のべ6日間にわたり指導した。

写真:実際に木を切る研修生と見守る小林さん

林業体験の研修生にチェーンソーの使い方の指導する小林さん

「身の丈に合った生き方」

小林さんの座右の言葉は「身の丈に合った生き方」だ。道づくりの師である大橋さんがよく口にする「身の丈に合った経営」から拝借した。

一般に林業は、植林から伐採まで長い年月がかかるため、数十年という単位で先のことを見据える必要がある。そのため目先の利益だけを考えていては続かないと話す小林さん。特に山を受け継ぐ次の世代、その次の世代のためにも、背伸びをせずにやっていくことが大切と考えている。

この道に入って30数年が経ち、今では林業が「天職とも思える」という小林さんは、日々、親子3人による山づくりに励んでいる。

写真:研修生の話を聞く小林さん

(公開日:H27.2.25)

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