阪神高齢者・障害者支援ネットワーク理事長

すごいすと
2014/01/25
黒田裕子さん
兵庫県神戸市
阪神高齢者・障害者支援ネットワーク理事長

阪神・淡路大震災をきっかけに、長年務めた看護師の職を辞して被災者支援のボランティア活動に身を投じ、以来19年間、神戸の被災者に寄り添いつつ、各地で頻発する災害現場に駆け付けて、阪神・淡路の経験を伝え、被災者を励まし続ける人がいる。

NPO法人阪神高齢者・障害者支援ネットワークの理事長、黒田裕子さんにお話を伺った。

平成26年9月24日に逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。

NPO法人阪神高齢者・障害者支援ネットワーク理事長黒田さん

阪神・淡路大震災

その日のことは、幾度となく人に話した。それでもその記憶はいつでもまるで昨日のごとくよみがえる――そう黒田さんは語る。

平成7年1月17日、5時46分。兵庫県の南部地域をマグニチュード7.3の強い地震が襲った。

当時宝塚市立病院の副総婦長を務めていた黒田さん。自宅も無事とは言えなかったが、職責を果たすべくすぐに勤務していた病院を目指した。

自宅マンションを一歩出れば、辺りに立ち込めるガスの匂い。崩れた家からは、助けを求める声も聞こえる。

「立ち止まって助けたいと、何度も何度も思った。それでも自分は公務員であるということが頭にあった。まず持ち場に向かって務めを果たさなければならない。ごめんなさい、ごめんなさいと謝りながら、その場を離れた」

宝塚市内には当時黒田さんが勤務していた市立病院を含めて4つの大きい病院があった。しかし、地震発生から2時間後には負傷者が殺到し、新しい患者を受け入れることが難しくなっていた。

このままでは死者が増える。そう考えた黒田さんは病院からほど近い市立体育館を救護所にすることを提案。医師2名と看護師2名を手配し、負傷者を受け入れられるよう何とか準備を整えた。

午前9時、救護所設置の情報が市民に届きだすとともに、次々とやってくる負傷者。

黒田さんらスタッフは怪我の程度を見極め、応急処置を行い、状態によって病院へと搬送する。すでに息を引き取った人が次から次ぎと運びこまれ47名の看取りであったため、体育館に急ごしらえの霊安室も用意した。

どうにも手が足りず、一人ひとり満足に泥も拭えないまま、その体を寝かせるような状態だった。

「ご家族には一言声をかけるので精一杯。せめて辛いお気持ちを少しでも吐き出してもらえるような時間を持てていたら…。それが今でも悔やまれるんです」

1.17東遊園地にて

毎年1.17には犠牲者を悼み、1年の活動の報告をする。
目を閉じるとあの日見送った47名の顔が浮かぶと涙をにじませた。

夕方には、市内の避難所が満杯になり、黒田さんの救護所でも負傷者以外の避難者を受け入れることとなった。黒田さんは看護師として立ち働きながら、救護所全体の陣頭指揮も引き受ける。避難者の数は一時、約1,500人に上ったという。

病院が平常通りの体制がとれるようになったのは2月になってから。それまで救護所は24時間体制で運営を続けた。黒田さんは約一ヶ月の間、家にも戻らず着の身着のまま、救援活動に明け暮れたのだった。

生き抜いた命を守りたい

病院機能が正常に戻ったことから、救護所はその役割を終え、黒田さんも病院勤務に戻ることになる。

同じ頃、神戸市長田区内で高齢者や障害者への支援を行っていた医療・福祉従事者のグループから、活動を手伝ってほしいと声がかかる。後に阪神高齢者・障害者支援ネットワークとなる『長田地区高齢者・障害者緊急支援ネットワーク』だ。支援ネットワークでは、震災当日からケア付きの緊急避難所を立ち上げ、ボランティアで運営していた。

被災者はそれぞれのくらしで手一杯。誰もが予期していなかった大災害に、高齢者や障害者に対するケアの手が圧倒的に足りていないのだという。

今彼らを支える行動をとらなければ、さらに死者は増える。せっかく助かった命がみすみす失われるようなことは、決してあってはならない。

黒田さんは市立病院を辞職し、一ボランティアとして支援活動に身を投じることを決意する。

黒田さんの新たな活動拠点となったのは、神戸市西区に設置された西神第7仮設。1060世帯が暮らす大規模仮設住宅だ。高齢者や障害者、ひとり親家庭などを優先的に受け入れた結果、社会的弱者が多く集まる「まち」が生まれることになった。特に65歳以上の独居者は450名に及び、「まち」のほぼ半分の世帯が「独居老人」だった。

震災以前は、隣近所の助け合いのなかでくらしてきた高齢者たち。見知らぬ人たちばかりの仮住まいに、ともすれば閉じこもり、生きる気力さえも失っていく。扉が閉ざされたままでは、何が起こっても助けることはできない。

黒田さんらは、まず住んでいる人を確認することからスタートした。対象としたの西神第7仮設に加えて周辺の仮設住宅を含む約3,000戸に及ぶ。

初めは住んでいる人数すらわからない。一軒一軒を訪ねて歩き、扉をノックし、声をかける。応答がない場合は電気のメーターを確認し、周りの人に聞いてまわる。状況が把握できれば、定期的に訪問し、健康相談や生活介助も行った。

こうした支援活動の拠点となったテントは、住民がふらりと立ち寄れるようにと、24時間体制でいつでも開かれていた。

「被災者は、日が暮れてから寂しさがつのる。その寂しさにこそ、ボランティアは寄り添うべき」

夜にこそ支える人が必要だ。黒田さんはそう考え、24時間常駐ボランティアのリーダーを引き受けたのだという。

「黒田さんは『仮設の天使』と呼ばれてました」当時一緒にボランティア活動を行った人は懐かしそうに笑った。

仮設住宅での運動会

互いに交流を深めるため、仮設住宅で実施した運動会

やがて仮設住宅でのくらしが長期化していくとともに、認知症の増加と症状悪化や、アルコール依存症、そして虐待など、住民らが抱える問題の深刻さは増していった。

黒田さんたちは、医師らによるなんでも相談コーナーやふれあい喫茶などを新たに設置。住民が気軽に立ち寄り、日々の交流が生まれるような仕掛けを試みた。

さらに「共に生きる」という考え方を一歩進め、仮設住宅を改造し、独居者や少人数の世帯のための『グループハウス』を作ることを計画。それぞれの居住空間と共同スペースを持つ住居をつくり、そこで自立した生活と、いつでも誰かがいる安心感が得られるくらしを目指した。

市と度重なる交渉を行い、仮設住宅の改造と運営の許可を取り付けた黒田さん。金銭的な補助は受けられなかったが、企業などの協力を得て資金を調達し、オープンにこぎつけた。

仮設にうまれたグループハウス

グループハウスでの茶話会

「ボランティアはいつか離れる。被災者のくらしは被災者自身がつくらないと。」

与えるだけの支援ではなく、片時も離れずに寄り添うことで、被災者自らが力をつけ、お互いに支え合えるようになって欲しいとお手伝いを続けてきた黒田さん。

平成11年9月に西神第7仮設が解消されるまで4年3ヶ月。仮設住宅にも自治会が生まれ、震災直後から全国各地より駆け付けてくれたボランティアに代わって、自分たちのまちを良くしたいと、住民自身や地元ボランティアが活躍するようになっていた。

この間、西神第7仮設において、孤独死と認定されたケースは3件だという。大規模仮設住宅においては異例の少なさだった。

その後、被災者の生活の場が復興住宅へと移り、住民らはそれぞれの地域でまた一からつながりを作らなければならなくなる。このため、阪神高齢者・障害者支援ネットワークは、西神第7仮設解消後も被災者や地域の高齢者・障害者に寄り添う活動を続けることにした。

復興住宅にほど近い神戸市営地下鉄伊川谷駅構内に『伊川谷工房』を構え、今もデイサービスや仕事づくり、復興住宅での支援活動などに取り組んでいる。

毎年1月17日には、当時の仮設住宅の住民やボランティアが集い、あの時を悼み、乗り越えてきた日々を語り合う。

伊川谷工房では、喫茶コーナーや相談事業も続けられており、不安や悩みを抱えた人もふらりと立ち寄って、誰かと話ができるように開かれている。

ひとつの命も失われないコミュニティであるために。信念は変わることはない。

仮設にうまれたグループハウス

伊川谷工房で行われている生きがい対応型デイサービス

こうべの経験を伝える

黒田さんは神戸での支援活動の経験をいち早く被災地に伝えるため、大災害が発生したときには自ら現地に赴く。

中越地震、中越沖地震、三重県水害、そして海を越えてトルコ、台湾、四川、ハイチ――。国境を問わず、支援活動に駆け付けた。

各地での支援活動で、長年行動を共にする『被災地NGO恊働センター』のスタッフは、黒田さんは超人だと舌を巻く。

平成23年3月11日に起きた東日本大震災でも、黒田さんは翌日には現地入りしている。

直ちに、宮城県災害対策本部からの依頼で避難所を巡回し、特に高齢者や障害者など「要援護者」に適切な支援がなされているかを確認して回った。

4月の初めには、医療や福祉のサポートが特に手薄と判断された気仙沼市の面瀬中学校避難所を自らの拠点として支援活動を始める。全国からボランティアで訪れる看護師らと連携し、24時間体制で避難所や在宅避難者の支援活動に取り組んだ。

避難所が解消された後も、同じ面瀬地区の仮設住宅に拠点を移して、現在も現地のボランティアとともに独居高齢者や要介護者に対するケアと、ふれあい喫茶などを用意し、孤立させないコミュニティづくりを進めている。

「助かったいのちに寄り添い、守りたいという思いは、19年前と何一つ変わらない」

神戸市内の復興住宅でふれあい喫茶を実施した次の日には、気仙沼での訪問介護を行うこともある。

神戸と気仙沼。二つの被災地を行き来する生活がまもなく3年を迎えようとしている。

気仙沼で活動中の黒田さん

気仙沼で活動中の黒田さん。在宅被災者の方への訪問も欠かさない

またこのような取り組みを、経験のない若い世代に引き継いでいくことにも、黒田さんは力を注いでいる。

阪神・淡路大震災以降、黒田さんら当時活躍した看護師たちによって、「災害看護」の知識体系が確立されつつある。

今や看護師資格の国家試験の内容にも採用され、全国の看護師や看護学生が学ぶこの分野。日本災害看護学会の理事でもある黒田さんは、言葉だけのものにならないようにと、全国各地で教壇に立ってきた。

災害現場で安全に立ちまわるための服装や、水が十分に使えない避難所内でのトイレでどのように感染症を防ぐかといった実践方法も教えながら、看護師としてのあり方も指導する。

「処置だけを考えるのではだめ。その人のくらしを感じてこそ、とるべき行動が見えてくる」

休憩時間でも質問を受ければ、自身が体験してきた被災現場での経験を、時間を惜しむことなく話す。

東日本大震災では、現地で活動する教え子らと再会したという。疾病だけを見る看護師になってほしくない。黒田さんの思いは着実に次の世代に伝わっている。

宝塚市立看護専門学校での授業風景

実践的に考えられるようグループワークも行う。
「感染症を広げないゴミ箱の作り方と設置場所」がこの日のテーマだった。

共創社会をめざして

黒田さんの取り組みは、看護や福祉の世界だけにとどまらない。

阪神・淡路大震災は、社会的弱者がくらしていくための課題を、まざまざと浮き彫りにした。

しかし、課題に立ち向かった市民たちが生み出した活動は、その後の市民の参画と協働による地域づくりの萌芽となる。

震災で生まれた数々の支援活動。その後も市民活動として継続し、地域に欠かせないものとなったものも多くあった。ただしボランティアベースで始まった取り組みを持続させることはたやすいことではない。助成金があってもその額は年々少なくなり、活動資金に頭を悩ませる組織は多かった。

そこで黒田さんら震災当時の活動者たちが中心となって、「市民の手で市民のためにつくる基金」を考案。平成11年、しみん基金・KOBEが立ち上げられた。市民からの募金を、主要な財源のひとつとしているこの基金。これまで14年間で、延べ 152団体に対し、約 5,400万円を助成してきた。

神戸ならではのチャリティイベントも実施されている。

例えば、平成11年から毎年1月に実施している「こうべ・あいウォーク」。阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた長田区を中心に、復興の営みを紐解きながら語り部とともに歩くこのイベント。

参加者から参加費代わりに集めた募金が、基金を通じて市民活動団体へ助成される。震災からの復興の歩みを振り返りながら、今後の市民活動も応援できる仕組みとなっている。

今年の「あいウォーク」には当時のボランティアや、震災を学ぶ若い学生、遠く東北の被災地で活動する人たちも参加した。

あの震災を契機に、多くのボランティアや、心を寄せ応援してくれた人たちの思いでスタートした市民活動。今では地域のくらしに欠かせないものになった市民の手による取り組みを、今後も絶やすことなく続けていきたい。そう黒田さんは語った。

こうべ・あいウォーク

こうべ・あいウォーク。これまでの参加者は延べ8000人を超える。

いのちを救う理念と責任

市民社会の確立をめざして数々の取り組みを進めながら、災害現場でのボランティア活動をあの日から19年間休むことなく続けてきた黒田さん。

どんな時でもひとつのいのちへ寄り添うことを、忘れることはなかったという。

神戸の仮設住宅で、酩酊状態の人に包丁を突きつけられ、恫喝されたこともある。

「怖くなかったといえば嘘になる。でも、その人がなぜそうした精神状態に置かれているかを考えれば、寄り添いたいという思いが揺らぐことはなかった」

「何よりもボランティアは押し付けの支援を行ってはならない。」黒田さんはそう繰り返す。人が本当に必要としていることは、本人の中にしかない。どんな精神状態なのか、何を求めているのか。その人が発している言葉や行動から、今の時点の必要に目を向けることを考える。

「話をしながら机の上に置いた手が開いていくのか、固く握りしめるのか。そんなことからもその人が今何を伝えているのかを考えることができる」

相手の息遣いや目の動き、全身が伝えてくるメッセージを読み取りながら、一人ひとりの今と黒田さんは向き合ってきた。

「あの日、もし起きる時間が違っていたら、私もここにはいなかったかもしれない。一度失ったと思えば、惜しくない。私のいのちをかけて、一つのいのちが生ききれるように寄り添い続けたい」

黒田さんが大切にしていることは「理念と責任」。

ひとつの命に寄り添う。その責任の重さもボランティアは感じなければならないと黒田さんは言う。

ゆらぐことのない確かな理念で、一人ひとりに寄り添い最後の一人までも見捨てない活動を続ける。

理念と責任

(公開日:H26.1.25)

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