菊炭生産者

すごいすと
2015/08/25
今西勝さん
(77)
兵庫県川西市
菊炭生産者
市街地からほど近い川西市の最北に「日本一の里山」と呼ばれる地域がある。53世帯117人が暮らす黒川地区。茶道に用いる菊炭の産地として知られているが、生活様式の変化や高齢化などで、かつて多くあった炭焼き農家は、現在では一軒となった。

良質なクヌギが育つ土壌が高級な炭を生み出し、木を切って山を利用することで「山の更新」がなされてきた地で、「これが生業(なりわい)」と60年、炭を焼き続ける今西勝さんは、人口が減っていく地区で、里山の文化歴史に関心を寄せる森林ボランティアや観光客、体験学習に訪れる小中学生など、里山を通した人々の交流にも一役買っている。

菊炭生産者 今西勝さん 兵庫県川西市

サラリーマンをあきらめて継いだ家業

小さいころから家業である炭焼きを手伝っていた今西さんは、中学校卒業時、サラリーマンになりたいと思っていた。就職先も決まっていたが、父一人では家業を続けることが難しかったため、諦めなければならなかった。高度経済成長の初期、同級生がほとんど村を出てしまい寂しい思いもした。がんこな父に反発して家出したこともあったという。

早くに母を亡くした今西さんの胸の奥には「妹2人も後を追うように幼くして逝った。ぼくは墓を守るために残された」という使命感のような思いもあった。リヤカーで大阪の天王寺まで炭を売りに行っていた父の苦労も見ていた。今西さんは「炭焼き農家を代々受け継いでいくのは理屈では語れない」と話す。

500年を越える歴史があるといわれる川西市の黒川一帯で生産される一庫炭(池田炭)は、千利休が茶会で愛用し、豊臣秀吉が称賛したことで有名になった。鉱山の燃料としても使われ、日常生活においても燃料といえば炭や薪だったが、昭和30年代に電気やガスが普及したことから炭焼き農家はしだいに減り、今では今西さんの1軒だけとなってしまった。

今西さんの家から見える里山の景観

今西さんの家から見える里山の景観

台場クヌギで山を更新

お茶席で一庫炭が好まれるのは、火がつきやすく長持ちし、はじけることなく煙も出ず香りがよいこと。何より菊の花のように見える切り口が美しく、「菊炭」との別名を持ち、地域の名産品として重宝されている。そのゆえんを今西さんは「燃えた後の灰まで粉雪のようにきれい」と力説。茶道の高級湯炭として全国や海外からも注文を受ける今西さんにとって、「きれいな炭をありがとう」というお礼や喜びの言葉が励みになっているという。

63年炭を使い続けている茶道表千家教授の竹内芳子さん

左が夏の炭手前で使う菊炭一式、右が冬用で太さが異なる。
63年炭を使い続けている茶道表千家教授の竹内芳子さんは、毎年行われる里山まつりの際、今西さんの庭でお茶席を設けることもあり「炭と鉄の釜でじわじわ沸かす湯はやわらかく味がある」と市民や観光客に伝えている。

 

菊炭の原材料であるクヌギは、地上1~2メートルあたりで伐採して芽を出させる「台場クヌギ」として育てられる。切り株から新芽が再生するため、新たに植林することなく8~10年周期でお茶炭に適当な太さまで育つ。伐採を繰り返すうちに、元の幹が太くなっていくため、今西さんは「親にあたる根元部分を大事にした切り方。そこから子どもである芽が出て大きくなっていく」と表現する。輪伐することで、生育年の異なるクヌギ林の景観がパッチワーク状になることが、「日本一の里山」と称される理由の一つだ。今西さんは、毎年範囲を見定めて山の所有者から木を買って切り出している。

「木を切ることは自然破壊と勘違いされることもあったけれど、山を更新するということ。ほったらかしの山は死んでいるようなものだ」

昔はほとんどの家が農閑期に炭を焼いていた。山のクヌギが育てば切って焼くという営みこそ「人里に隣接して、その土地に住んでいる人の暮らしと密接に結びついている山」という里山の本来の意味の姿だったという。

生活様式が変化するにつれ、パッチワーク状だった景観も、ワンポイントのアップリケのようになってきている。現状では「日本一」という形容に今西さんは「少し耳が痛い」と言うが、里山は新たな人のつながりを生んでいる。

伐採によって主幹が太くなった台場クヌギ

伐採によって主幹が太くなった台場クヌギ

森林ボランティアに支えられて

菊炭のためのまっすぐなクヌギを作るには、下草刈りなど、山の整備が重要だ。人口が減り、少子高齢化の進む地区の住民だけで担うには限度がある。日常の営みそのものが里山を育てていた時代から、能動的に保全しなければ守れない時世となった。

平成13年、県の要請を受けてNPO法人ひょうご森の倶楽部のボランティアが黒川地区で活動を始める。それまでは、個人への利益を避けるため、国や県、市の所有林に限っていたが、黒川は例外として、菊炭文化の伝承のために私有地で活動している。菊炭を守ることは原木のクヌギを守り里山保全にもつながる。ボランティアは「地域の人たちとともに伝統を守ること」にやりがいを感じ、猛暑のなか汗だくで草を刈る。今西さんと同年代の人たちが多く、「毎年年末に、今西さんの庭で餅つき大会があって、しし鍋を囲むのが楽しみ」という。

「山を手入れすると良い木ができる。良い木は良い炭になる」と今西さん。近年はほかにも多くのボランティア団体が山の整備を行うほか、子どもたちの体験学習も実施され、今西さんの炭窯の見学にも訪れる。

10年ほど前、見学に来た小学3年生に作業を説明するうち「なんでサラリーマンにならんとこんな炭焼きになったんやろ。失敗やったわ」と話したことがある。すると「何言うてんねん。サラリーマンしてたらぼくらけえへんで。おっちゃんが炭焼いてるから来たんやで」と言われた。今西さんは「なまいきや」と言いながらうれしそうに笑っていたという。

クヌギ林を整備するボランティアの皆さん

8月8日、猛暑の中、背丈ほどの雑草を刈りながら急な山道を登り、
クヌギ林を整備するボランティアの皆さん

次の世代へ

今西さんは、11月末頃に木を切り出し始め、12月から5月頃まで炭を焼く。炭窯に1回4トンの原木を並べ、火かげんしながら3日間燃やした後、ふたをして4日冷ます。最高750度まで上がる窯の中は、炭出しの日が来ても80度を超える。今西さんは防空頭巾をかぶって窯に入るという。ベルトコンベヤーなど使わず1本1本手で運ぶため、今西さん夫婦や長男の学さん家族、休日には今西さんの弟と次男も加わり、家族総出で作業をする。正月も休まず一連の作業を1シーズンで25回ほど繰り返す。

4トンの原木は、炭になると800キログラムとなる。家業を継いだ当初は400キログラムの炭しか焼けなかったが、今西さんは倍にしようと大きな窯を作った。焼く木も25センチ長くして1メートルに伸ばした。

「親のもう一つ上にいく気持ちでないといかん。どんな仕事でもそうでしょう」

今西さんは「炭焼きや農業は夢を育てる仕事」という長男の学さんに期待しているが、社会情勢を考えると孫の代まで強制することは出来ないと言う。

幼少のころから山や畑で遊び、炭焼きを手伝ってきた孫の良拡さん(15)は、伝統を守ることについて「できるとこまでがんばる。今まで続けてきたから」とはにかむ。窯の煙突の穴にマッチ棒をかざし「1、2、3」で火がついたら密閉して中の火を止めるタイミングも勉強したという良拡さんは、経験とカンがものをいう火を止める職人技が身に付くことを喜ぶ。炭焼きの合間と6月から12月までは農業を営んでいるため、家族旅行にはめったに行けないが、代々受け継がれている家業を誇りに思う良拡さん。炭焼きを拡大することはもとより、維持することも困難な時代がくることを見据え、将来について多くは語らない今西さんだが、そんな良拡さんの思いを嬉しく思っている。

約30年前の炭窯をつくる作業風景

約30年前の炭窯をつくる作業風景

ヤギのメーちゃんを囲む家族。前列が学さんと多恵さん夫婦。後列左から学さんの長男勇さん、次男良拡さん、今西さんの妻初子さん

ヤギのメーちゃんを囲む家族。
前列が学さんと多恵さん夫婦。後列左から学さんの長男勇さん、次男良拡さん、今西さんの妻初子さん

炭の配達に同乗したり農作物の商品作りも手伝う良拡さん。

炭の配達に同乗したり農作物の商品作りも手伝う良拡さん。
自然を相手に働く祖父母や両親のもとで育ち「水をやらなかったら枯れるように、何でも自分のおこないしだい」と、部活動の練習にも励む。

人のふり見て我がふり直せ

今西さんが心にとめている言葉は「人のふり見て我がふり直せ」。一つ上に行くためには人の動きや周囲に目を配らなければならないという。

家業を受け継ぎ、激しい時代の変化を見極めながら地域の名産をつくり続けることにより、日本一の里山で多くの人々の営みや活動をもたらす一翼を担ってきた。

「辛かったことは全部忘れた」と言う今西さん。里山を訪れる子どもたちの「また来たい」という言葉を原動力に、地域の伝統を守っていく。

人のふり見て我がふり直せ

(公開日:H27.8.25)

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