市内で1,146人が亡くなった阪神・淡路大震災では、犠牲者の命に向き合い、人々を笑顔にしたいと強く思った。一人でも多くの人をにこやかに健やかにと願い、幼児から高齢者まで幅広く、能力に合わせて楽しめる「トランポ・ロビックス」の普及に努め、東日本大震災の被災地でもスポーツを通じたボランティア活動に取り組んでいる。
宝塚歌劇の男役を夢見ていた井上さんが進んだ道は「体育の先生」だった。生まれ育った鳥取県から大阪体育大学に進学し、教職課程で学ぶ一方、ダンス部に入部。創立5年の大学だったため、施設や指導者などの環境が整っておらず、学舎の階段の踊り場で練習したり、歌劇を見に行ってヒントを盗んだりした。多忙を極める64歳の今も「あの頃のクラブ活動のハードさに比べれば」と思うと奮い立つという。
スポーツの辛さも素晴らしさも体験した井上さんは、恩師の推せんもあり西宮市の神戸女学院大学で教職に就く。25歳で結婚した際は神戸市に居を構え、二人の息子を育てながら通った。しかし子どもたちが小学校2年生と5年生になったころ限界を感じ、通勤時間を短縮するために大学近くに引っ越した。「手抜きをしない約束だったので、料理はちゃんと作りました」と笑う。文字通り体を育むことに労苦をいとまないのは、体育のプロとして職に就いているからだけではない。根底には20代半ばで一人目の子どもを失った経験があった。
初めての妊娠は、8カ月で死産。この経験が「命の出発点」と井上さんはいう。
「妊娠前に1メートル跳んでいた自分なら、30センチだったら大丈夫と思ったんですね。反省しています」
人生の多くをスポーツ中心に送ってきた過信があった。妊婦にも「適度な運動」が必要といわれるが、「適度」という日本語の難しさを痛感した。
1年半後に産まれた息子には「この出来事があったからあなたがここにいる」と、その3年後に生を受けた息子には「この出来事がなかったら3人目のあなたはいなかった」と話した。学生に対しても同じように、命の尊さを説く。
井上さんは「体育学」とともに「女性学」を担当している。女性の生き方が多様になり選択肢も増えたが、自分の体や妊娠のことなどについて、情報を正しく読み取っている学生は多いとは言えない。望まぬ妊娠をし、悩みを胸に抱えたまま大きな代償を払う学生もいるという。井上さんは「億という精子の中の一つと一万個近い数の中の卵子が出逢って産まれたのは奇跡。もっと自分を大切にしてほしい」と学生たちに伝える。
「あの時あの声をかけておいたらよかったと後悔したくない」
昭和40~50年代、アメリカで流行したエアロビクスが日本でもブームになったが、関節に負担がかかるなどスポーツ障害も多発していた。そんな折、大阪体育大学の後輩で芦屋市教育委員会の権藤弘之さんがミニトランポリンを用いての有酸素運動健康法を普及し始め、井上さんも一役担うことになった。昭和60年頃のことだ。
ミニトランポリンの上では、膝や腰への衝撃が床で運動する際の半分程度に緩和されることが実験でも実証され、効果を感じた井上さんは、県内のみならず故郷の鳥取県まで啓発に出かけた。
「大学を飛び出したことがよかった。理屈でものを言うより現場を見ることが大切ですね」
平成3年、研修に出かけた西宮総合体育館で、大学の1年後輩・古谷久代さんと再会。古谷さんもまた、別のグループで啓発活動を行っていた。この出会いをきっかけに、活動を共にすることになった2人は、後に立ち上げた兵庫県トランポ・ロビックス協会の会長、副会長として活動を展開してく。
トランポ・ロビックスは、幼児から高齢者まで一人ひとりのレベル(個別性)に合わせた動きが楽しめることに加え、短時間で汗をかけるため、メタボリックシンドロームの予防・改善や高齢者施設でのリハビリ運動にも取り入れられている。老老介護をせざるを得ない人や、介護や看護のための退職者が年間10万人を超えることが社会問題になっている現代では、健康長寿はだれもが願うことだ。
「運動がきらいな人は、健康にいいと言っても、失敗を恥と思って体を動かしたがらない。運動への印象を変えることで苦手意識をなくし、運動する人を増やしたい」
平成18年、兵庫国体オープニングプログラムでは、協会のスタッフとともに850人をまとめてトランポ・ロビックスを披露した。年代を越えて親しまれている活動が注目され白羽の矢が立ったものの、人数集めに始まり、園児から高齢者までが一斉に動く難しさは予想以上だった。園児のユニフォーム代わりに、はばたんのバンダナをポンチョに仕立てて経費を抑えた。障がいのある人も加わり1年かけて練習した。
「できない人はいつもより頑張って、できる人は寄り添って、みんながそれぞれ合わせようという気持ちが一つになった」
トランポ・ロビックス協会では、事務所がある稲美町をはじめ、各地で教室を開いたり、神戸まつりなど地域の行事に参加している。播磨社会復帰促進センターでの慰問を続けている副会長の古谷さんは「歯を見せてはいけない(笑ってはいけない)」という制約の中で「下向きだったみなさんの視線が、上を向いた」と、トランポ・ロビックスの力を改めて知らされた。
教室に通う岡田えつこさん(48)は、幼稚園の親子教室で始めてから「肩こりが治り」、指導員の資格を取るまでになった。11月に喜寿を迎える山下悦子さんは「駅の階段でハーハー言うようになったので始めました」と、ピンと伸びた背筋で弾む。井上さんの元気が大学生の励みになるように、一回り年上でありながら、はつらつとした山下さんの姿は、井上さんの目指すところでもある。
平成7年の阪神・淡路大震災。西宮市の倒壊家屋は6万を超えた。井上さんは被災した大学教職員らの家を駆けまわって復旧の手助けをした。授業に復帰するや左足のアキレス腱を断裂。脚の付け根までギブスをはめる重傷だったが、被災者で一杯だった病院は、3日以上入院できない修羅場だった。「兵庫県に笑顔を取りもどしたい」と強く思い、スポーツを通じて笑顔を増やすための活動に一層邁進した。
平成23年から、井上さんたちは、兵庫県スポーツ推進委員会が中心の東日本大震災ボランティア活動隊の一員として、宮城県南三陸町に行っている。運動不足やストレス解消のため、そうめん作りなどレクリエーションや様々なニュースポーツ体験を実施しているもので、井上さんたちは、トランポ・ロビックスを担当している。
「お母さんの羊水の中にいるような状態なので自然と笑顔もでるようです。知らず知らずのうちに足の裏全体でバランスをとっていて体幹も鍛えられますよ」
汗をかくことに加え、日常にない揺れる動作が心身に良い影響を与えているという。
容易には癒えない心は、井上さんも経験している。自宅のマンションの一室の壁にできたひび割れをあえて残し「あの時を忘れないようにしている」とも話す。
大学ではほぼ毎日講義を受け持ち、6つの部活動顧問を務めている。井上さんの講義を選択した4年生の田村有祐美さんは「就活中の心や体が軽くなる感じがする」と汗をにじませる。今季からは、やりたい種目を学生たちがプレゼンテーションする授業を実施。近年の就職活動で試されるコミュニケーション力を育むのはもとより「楽しかった」と思えることが大切という考えからだ。来年3月に退職を控えてなおチャレンジし続ける。
トランポ・ロビックスと出合ってから「一番前を走っているから」と、休む間もなかった。知人に送るメールの最後に自戒をこめて「ゆっくり ゆったり のんびり」と綴っていたところ、「ぼちぼち、ね」と加えられた。
今年、孫ができた井上さん。「ゆっくり のんびり」過ごしたいところだが、健康で笑顔あふれる孫たちの未来をつくるためには「まだまだのんびりさせてもらえそうにない」と、走り続けていく。