川村真純さんは何をする人なのか。とてもじゃないけど、ひと言では言い表せません。まずは、アクセサリー製作のアーティスト。音楽系イベントユニット「爆発メルヘンCity」や、ピカピカの電飾でイベントを演出する電子工作ユニット「ヅカデン」、そして、体感型イベントスペース「AHSO」の運営など。肩書はたくさんありますが、その一つ一つがつながっています。好きなことを軸にしつつも固執しない。ものごとをフラットに捉え、どんな環境にも楽しみを見いだす川村さんに漂う、明るい空気をおすそわけします。
自己紹介が「一番、困るんです」
清澄寺で知られる、宝塚の清荒神エリア。駅前の商店街を抜け、息を切らしながら急な坂道を上った先には、古い一軒家を改装した体感型イベントスペース「AHSO」があります。出迎えてくれたのは、ここを運営する川村真純さんです。
川村さんのプロフィールを見て、その活動範囲の広さに何からインタビューすればいいか迷っていました。そこで、初めて会う人への自己紹介をどうしているか聞いてみると「それが一番、困るんです。とりあえず『屋号多め女子です』と言っています。」
「相手が何をする方なのかによって、それに近い活動から話すことが多いですね。ときには『ローカルカメレオンイベンター』と言うこともあります。」
相手に合わせてイベントの内容を変化させるから「カメレオン」。
取材場所にもなった「AHSO」は、令和3(2021)年にオープンしたばかり。川村さんが親しくしている地元の「シチニア食堂」が同じ地域内で移転したので、跡地を活用することになりました。ここでは、ミュージシャンのライブやアート作品展示、サッカーW杯のパブリックビューイング、お笑いの寄席まで何でもやります。「近所迷惑にならなければ何でもあり。」と、あえてルールは決めていません。
それにしても「AHSO」というちょっと不思議な名前は、何に由来しているのでしょうか。
「1つ目は、来てくださった方に『ああ、そう』って言ってもらいたいんです。DJ活動をする和菓子屋さんなど、ここに集まるのは、2つ以上の顔を持つ人が多いんです。夫たちの電子工作ユニット『ヅカデン』も、メンバーはみんなサラリーマンですし。」
古民家なのに電飾がピカピカ光っている。しかもそれを手がけるのはサラリーマン。こうした、ちょっとしたギャップが「ああ、そう!」を生むのですね。
「あとは、宝塚出身の手塚治虫さんをはじめとする漫画家が集まった『トキワ荘』へのオマージュと、『おもしろそう、楽しそう』の『そう』も掛けています。」
いろんな思いが込められているだけあって、古民家だけれど純和風というわけではなく、ヴィンテージ感のある家具やアートの要素がミックスされた「AHSO」。心地よい空気が流れる、地域の居場所となっています。
アートや古着カルチャーに親しんだ学生時代
アーティスティックで、「屋号多め」な川村さんの原点は、京都の芸術短大時代に通っていた大阪の堀江エリアのカルチャーにあります。
「たまたま堀江の古着屋さんに行ったとき、MAYA MAXX(マヤマックス)さんというイラストレーターのライブペインティングに出くわしました。お客さんとの雑談からインスピレーションを得て絵を描く様子が、自分にパシーンと響いたんです。」
短大で学んでいたのは、自分の作りたいものより、クライアントに応えるためのデザイン。そこにやや窮屈さを感じていた川村さんは、それから毎日、学校が終わると堀江に通い詰め、アートと古着に囲まれた生活を送ります。
「昔のものってすごくしっかり作られていて、機能性を重視した現代の製品にはない重量感があるのが好き。ボタンや家具の縁の部分のひと手間などを見ると、キュンとします。年月を経て僅かしか残っていないものを見つけたときの『発掘した感』がたまりません。」と、ヴィンテージカルチャーの魅力を語ります。
そんな川村さんですが、短大卒業後は進路を180度転換。IT企業、Apple社のコールセンターで働き始めました。
「就職活動はせず、そのまま堀江でアルバイトをしていたんですが、時給も安く、好きなことだけじゃ生きていけないと思いました。実はパソコンも好きだったので、パソコンを学びながら働ける場所がないかと探したところ、Apple社のコールセンターの募集を見つけたんです。」
まだ今ほどパソコンが普及していなかった2000年代前半のことです。同時に入社したのはほとんど男性で、川村さんは一番年下。戸惑うことはなかったのでしょうか。
「いわゆるマニアと呼ばれる、今までに出会わなかった人たちとの会話が、堀江の雰囲気とはぜんぜん違って、すごく楽しくて。わからないことがあると丁寧に教えてもらえたし、ありがたい環境で働かせてもらいました。」 自分とは異なるタイプの人や環境にも構えることなく、おもしろさを見いだせるのが川村さんの強みなんですね。
「屋号多め女子」が花開く。清荒神から大阪や神戸にも
結婚をきっかけに退職した川村さん。平成26(2014)年に清荒神に引っ越したことをきっかけにアクセサリー製作を本格化させ、再びアートカルチャーの世界に近づきます。
地域では、「シチニア食堂」との出会いを軸に仲間が増え、平成30(2018)年には好きなミュージシャンや飲食物などの出店者を集めた初めての自主イベント「爆発メルヘンCity」を神戸で開催。これがそのままユニット名となり、川村さんのイベンター人生が始まりました。
大阪・梅田の百貨店の催し会場では、なんとDJイベントを開催。百貨店で大きな音の出るイベントだなんて、すごくないですか?
「初めはアクセサリーの出店者だったんですが、百貨店の担当者と『音楽イベンターもやってます』『夫が電飾をしていて』と話す中で、『じゃあ』と声をかけてもらいました。」と川村さん。これまでの一つ一つの活動や挑戦が、また次の縁へとつながっていきます。
川村さんの活動場所は、大阪の百貨店だけでなく神戸や他の県内各地など広範囲にわたります。地元である清荒神を拠点としつつも、それにこだわることはありません。
地域で活動していると、「私は神戸」「自分は大阪」など、無意識のうちに自分のエリアを決めてしまいがち。でも、川村さんは地域への愛着はあれど、こだわりは「全くないです。」ときっぱり。「いろんな場所に行くと、地域ごとに異なる魅力があることがわかります。それを知りたくて出かけていくのかもしれないですね。」。アートカルチャーからIT業界へ転身したように、心の中に垣根を作らず、ジャンルも地域も軽やかに越えていく。これが、川村さんの魅力だと感じました。
コロナ禍を経験したからこその「AHSO」
たくさんの人とつながり、触れ合ってこそのイベントやアート活動。それができなくなったコロナ禍では、何を感じたのでしょうか。
「『爆発メルヘンCity』は一度、ロックダウン宣言をしたんです。イベントごとに毎回中止を告知するくらいなら、いっそのこと活動休止を宣言した方が早いのと、日本は法律上ロックダウンできないけれど、私たちだけの『シティ』はできるよね、という軽い遊び心でした。でも、言霊なのか、ユニットだけじゃなく、私自身もロックダウンしたような気持ちになってしまって。」
初めての緊急事態宣言が明けたものの、小さなイベントさえやっていいのか悩んでいたとき、あるミュージシャンの「今は我慢ばかりだけど、細々とでも続けていけば音楽の灯は消えないし、次に続いていくと思う。」という言葉が、再び動き出すきっかけになったといいます。
ふだんは清荒神にとどまらず、いろんな地域へ出かけていく川村さんですが、コロナ禍を経験して「拠点をもつ意味」を感じるようになりました。
「いつでも行けると思っていた場所に、行けなくなることがあるんだとわかりましたよね。それまでは拠点をもつことで自分の動きが制限されると思っていたけど、大阪まで行けなくても、近所にアーティストが来る小さな箱があるって大事なのかなと。地域に還元というとおこがましいけれど、縁の下の力持ちのようなお店になれれば。」
今は清荒神のキーパーソンの1人である川村さんも、初めは知り合いが地域に誰もいませんでした。「地域とつながりたいけれど、自分には何もない。」と、一歩踏み出せない人はどうすればいいかと尋ねると、こんな答えが返ってきました。
「居心地のいい場所やお店があれば、深く考えずに行ってみたらいいと思います。例えば、『AHSO』なら、私たち自身が大好きでたくさんの人に知ってほしいアーティストを招いているので、来てちょっと感想を話すだけで、最初の一歩になります。何も知らない田舎娘だった私が、目の前のアートに刺激を受けたように、まずは受け取ることから始めると、そこからスポンジのように吸収できるんじゃないでしょうか。あとは、お店の人が巻き込んでくれますよ。」
そう話す川村さんの目は、堀江でアートカルチャーに夢中になった頃から変わらないのだろうと思うほど、生き生きとしていました。