NPO法人 関西ブラジル人コミュニティCBK

すごいすと
2016/12/25
松原マリナさん
(63)
兵庫県神戸市
NPO法人 関西ブラジル人コミュニティCBK

サンパウロ市出身、ブラジル人日系2世。日本のサッカーチームにコーチとして招かれた夫とともに、昭和63年に来日。通じない言葉や文化の違いにとまどう長女の姿をきっかけに、在日外国人の子どもたちをサポートするボランティア活動に加わる。平成13年にNPO法人関西ブラジル人コミュニティCBKを立ち上げ、平成20年より「神戸市立海外移住と文化の交流センター」内にある「多文化との共生の広場」の指定管理者に。子どものための日本語学習支援教室・母語(ポルトガル語)教室、ブラジル移民祭「フェスタ・ジュニーナ」などのイベント開催、県内の子どもたちと在住外国人の交流会など様々な事業を展開中。

100年の歴史をつなぐ建物を守る

1908年4月28日、初めての移住者781人が神戸港からブラジルへ旅立った。それからおよそ100年。日本からの移住者は戦前・戦後を合わせて25万人に上る。当時彼らが渡伯の準備をしたのが「旧神戸移住センター」、現在の「海外移住と文化の交流センター」だ。

山本通の坂を上ったところに、海外移住と文化の交流センターがある。

「100年以上過ぎた現在も、ブラジル移住の原点であるこの建物で、サポート事業を行えていることに意味があると思っています。当時の両親たちと今の子どもたちの姿が、100年の時を越えて同じように重なります。」
そう語るのは、NPO法人 関西ブラジル人コミュニティCBK代表を務める松原マリナさん。多くの人たちの理解と尽力で、活動拠点として日々を過ごす場所。この空間を、この建物を守りたいと話す。努力を財産に変えながら「教育」と「共生」に尽くす日々を過ごしている。

「私たちは移民なんだ!」気づきから始まったボランティア活動

昭和63年、札幌への来日時はちょうどブラジル移民80周年。テレビ局の記念番組に出演した際、初めて「移民」という感覚が芽生えた。
「当初は、自分たちが移民だという意識もなかったんです。その時初めて、もっと両親から移民について聞いておけばよかったと後悔しました。」

当時小学校低学年だった長女は、日本語も日本の社会もわからない上、学校からは読めないプリントを山ほど持ち帰ってくる……。学校生活に慣れるだけで精いっぱいだった。
「ブラジルから仕事のために来日して来た大人たちは、読み書きができません。これがいちばんの困りごとです。家に届く書類はみんな日本語、しかも漢字。小学校の入学案内のハガキさえ、読めないから、捨ててしまう人も多くて……。」
「自分がそうだったように、困っているお母さんたちの助けになりたい。」そう思った松原さんは、長女の応援を支えに自分の経験を学校ボランティアとして活かそうと決心した。

「高校入試の準備で外国人登録証明書の提出を求められ『なぜ外国人には登録証明書が必要なの?』と疑問を持った次女が、移民について調べ始めました。知らないことを知らないままにしていてはいけないと、改めて気づかされたこともありました。」
移民の子孫として、ブラジルでの経験や日本で学んでいること、思い出すこと、感じること……。ブラジルと日本のつなぎ役として、すべてを伝えてゆきたい。当時の思いは、現在も変わることなく松原さんを支えている。

「おぼえる」ことが、力になる

松原さんがサポート活動の中でも「教育」を大切にし続ける理由。そのひとつが「いちばん困った時、おぼえることが力になる」と、身を持って知っていることだ。
「プロサッカーチームとの契約が終了する。」
ご主人からの報告にも、ボランティア活動をどうしても続けたかった松原さん。翻訳などの仕事を受けながら家計を支え続けた。
「漢字が読めなかったんです。当時、小学生だった娘たちが寝静まってから夜中3~4時まで、必死に勉強しました。大人が一生懸命に取り組んでいる姿を、子どもは見ているんですね。娘たちも、私の苦労している姿を見て日本語の勉強に取り組むようになりました。」
苦労した当時の体験が、今となっては家族の財産になっているという。

土曜日に開催されるポルトガル語の教室ではボランティアや留学生が教えている。

その一方で後悔もある。母国語であるポルトガル語を、長女に教えてやれなかったことだ。
「言語はアイデンティティです。日本に住んでいるからこそ、子どもに母国語を学ばせないといけません。その意識が必要だと思っています。」
自分の子どもにできなかったことを、みんなには伝えてゆきたいという松原さん。今では、高校・大学まで進んだ子どもたちが、「ここまで、できたよ」と報告にやって来る。
「在日ブラジル人たちは、大学進学のイメージをあまり持っていませんが、娘たちは進学できました。大学まで進むと自分がやりたいことが見え、選ぶことができるようになります。この道を、みんなにつくってあげたいんです。」
そんな子どもたちへの教育に関して、松原さんにはある忘れられない思い出があった。

目標は、高校進学!

ポルトガル語教室では、ブラジル人や日本人の子どもたちが共に学んでいる。

数年前、ブラジル出身の女子中学生が自宅に放火し、死傷者を出す事件が起こった。県からの要請を受けサポーターとして出向いたその中学校で、松原さんはある女子生徒と出会う。仕事を求めてブラジルから移住してきた親は、厳しい就職の現実を前に離婚。子どもに向き合う余裕のない母親に代わって、松原さんが相談相手になった。
「サポーターというより、親として話をしていました。土日にはCBKに連れて来て、みんなと一緒に勉強させたりいろんな話をしたりしましたね。」
その数年後の移動領事館の開催日。「マリナ! 私を覚えてる?」その子がやって来たのだ。定時制高校に進学しすっかり落ち着いた様子に、松原さんの喜びもひとしおだったという。
「小学校、中学校でしっかり勉強すれば、高校へも大学へも進めます。自分の力で生活ができるようになって欲しい。」
そんな松原さんが、教育の先にめざすもの。それが「共生」だ。

目で見る、経験する、それが共生への第一歩

平成11年にスタートしたボランティア活動から2年後、CBKはNPO法人化を果たした。当時を振り返り、松原さんは「管理責任者の方をはじめ、多くの関係者の皆さんが一生懸命応援してくださったおかげです」と感謝の思いを口にする。
心のよりどころ役を果たす相談窓口、県や市の会議での発信、2日間で1,000人以上を受け入れた移動領事館の開催。それら多岐にわたるCBKの活動の中でも、松原さんが設立当初から続けているのが、お祭りやイベントの開催だ。

移動領事館では、多くの人が訪れ手続きを済ませる事ができた。

同会場では日本での進学・教育の重要性について講演が行われた。

今、活動ができるのは、ブラジルでいろいろなことを経験してきたからだと言う松原さん。
「話すだけでは伝わらないことも、目で見て経験することで理解できると思ったんです。でも当初は、バーベキューをすれば煙だらけにしてしまうし、イベントへの理解が得にくかったですね。それでも続けるうちに、周りに迷惑をかけない意識を持つことをブラジル人が覚えてきました。日本のみなさんも、ブラジル人が大切にしていることや、大変な思いをしていることを理解してくれるようになりました。お互いを責めるのではなく、いいことを伝え合いたい。ふれあいの中で、ブラジルのやり方と日本のやり方の違いをお互いに理解し、採り入れ合い譲り合いながら新しいものを生みだしてゆく。これが共生の第一歩だと信じています。」

移民の歴史を学ぶ移民祭。2016年4月には第13回が開催された。

時期を待つ

「ボンジーア!」「チャオ!」
隣の事務所の日本人たちが、気軽にポルトガル語で挨拶をかわしてゆく。
「これが共生の基本だと思う」と松原さん。
かつて10年暮らした地域で、近隣住民から挨拶を返してもらえない日々を過ごした松原さんファミリー。今でもレストランに入っても、ポルトガル語で会話を始めると「なぜ日本人の顔でブラジル人なの?」「なぜここにブラジル人がいるの?」といった怪訝な顔で見られることも多いという。
「直接かかわることの少ない日本人には、私たちの存在を理解してもらうことが難しい。あなたの隣人には、違う国籍の人もいるんだよって、国民全体が理解して受け入れることができたら、本当の多文化共生の国になります。」

そのために必要なこと。それは、我慢ではなく「時期を待つ」ことだと松原さんは言う。
「焦らずに、順番に、時期を見ながら活動を続けてゆくことの大切さを感じます。勉強している子どもたちも、すぐできるのじゃなく『いつか』時期がくる。自分の力で日本での生活ができるようになるのも『いつか』。今、私たちにあるもの、できていることを、少しずつ増やしていけばいい。時期を待つことは大切ですね。」

CBKもいつかは解散する日が来るかもしれない。でもそれは「多文化共生」が広がって、みんなが仲良くなれたことを意味していると言う松原さん。いつかCBKが、支援団体からひとつのコミュニティになる日を、松原さんは待っている。

(公開日:H28.12.25)

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