地域に語り継がれる民話をもとに史跡を発見。その史跡を巡る登山道づくりに取り組むなど地域の活動に定年後の第二の人生を捧げる人たちが集うボランティアグループがある。
大藤山ボランティアグループ会長の三村桂さんにお話を伺った。
加古川市志方町。農村の名残を残す田園に囲まれた緑豊かな地域。戦国時代の話が多く残る地域でもある。近年は黒田官兵衛の正妻、光姫のふるさととしても知られるようになった。
大藤山ボランティアグループは、そんな志方町の永室地域で活動するグループ。
グループは永室の住民で結成されており、会長である三村さんを含め、永室に生まれ育った人が多い。70代のメンバーが中心的に活躍している。
三村さんも、定年後、地域のために活動したいと考えた一人。
「前会長から後任に指名された時、会社での経験は地域活動に通用しないという危機感から、高齢者大学を受講しました」と話す。
普段のグループの活動のひとつは、のどかな田園風景を活かした地域の魅力づくり。
例えば休耕田3,000㎡を使った野菜作り。多い時には7,000㎡にも及ぶ規模で栽培を行っていたという。この野菜は作るだけでなく販売もしている。安価で作り手の見える野菜が手に入ると好評を得ており、その売上はグループの活動資金にもなっている。
同じく休耕田を使い、観賞用の赤ソバも栽培。こちらは2,000㎡の広さで、開花時期の10月には老人会や子ども会と協力して、毎年イベントも開催してきた。
多くのソバは白色の花をつけるが、赤ソバの花はその名の通り赤い花が咲く。観賞用として改良された希少品種だ。
珍しい赤いソバの花が一面に広がる風景をひと目見ようと、近隣の住民だけでなく、明石や尼崎など遠方からも観光客が多く訪れる。
また、地域住民のつながりを深めるための活動も大切にしている。
グループの活動で一番長く行われてきたのが、ふれあい喫茶。公民館の一室を利用し、1杯100円で飲み物とお茶菓子が提供される。毎週日曜日、グラウンドゴルフを終えた人やゆっくりおしゃべりを楽しみたい人たちが集う、地域の憩いの場だ。別の集落から足を運ぶ人もおり、グループの女性会員たちが手厚くもてなす。
「みんなよくやってくれてる」「日頃の楽しみになっている」
訪れる人たちが異口同音に語るのは、そんなグループへの感謝の言葉だった。
このように地域住民が地域のために活躍する「大藤山ボランティアグループ」。その中でも、三村さんが特に力を入れてきたのは、平成17年にスタートした大藤山に伝わる伝承を元にした登山道づくりだ。
グループの名前にも掲げられている大藤山は、永室地域の北に位置する標高250mの山。ふもとの長楽寺は、古くから地域の人たちに「谷の地蔵さん」と呼ばれ、親しまれてきた。
永室には、この大藤山や長楽寺をめぐっては、戦国時代に端を発する言い伝えが残っている。
それが「蛇ヶ池の鐘」と呼ばれる民話だ。
三村さんらはこの民話をもとに地域の名所づくりをしようと考えたのだ。
天正6年(1578年)、羽柴秀吉らがこの地にある神吉城を攻め落とそうとしたときのこと。一本の矢が秀吉の軍勢に打ち込まれた。矢にあった銘から、長楽寺から放たれたものだと知った秀吉勢は、寺と大藤山を火攻めにする。その時火の手から守ろうと、住職によって長楽寺の本尊と釣り鐘は運び出された。鐘は池に沈められ、本尊は住職とともにいずれとなく姿を消した。
それから長い年月を経た今なお、池に沈んだ鐘はそのままで、池の主である大蛇によって守られている。もしもその鐘を誰かが引き上げようとすると、大蛇の怒りを買い、村に大雨を降らせるという。
三村さんを始め、永室に生まれ育った70歳位より上の世代は、みんなこの伝説を聞いて育った。
実際、住職とともに消えたとされる本尊「木造延命子安地蔵菩薩半跏像」は、後年発見され、再興された長楽寺に安置された。今では国の重要文化財として指定を受けている。
9年前、地域の名所を作ろうとグループで思案した時に、全員が思い当たったのがこの伝説だった。燃やされたと伝わる旧長楽寺の跡地と、蛇ヶ池―― 子どもの頃から話に聞くだけだったものが、ひょっとしたら今も実在しているのではないか。
三村さんたちは伝説の痕跡を求めて、大藤山の探索に着手することにした。
足を踏み入れる人もいなくなっていたため、道らしき道もない。草木に覆われた斜面をひたすら進んだ。
「山の名前の通り、藤づるが縦横無尽にのびていたので、苦労しました」と三村さんは振り返る。
しかし、その苦労の甲斐もなく、山頂付近には、旧長楽寺跡らしきものは見つからなかった。
落胆するグループのメンバー。ただ予期せぬ物が見つかった。背丈ほどもある笹をかきわけた先の大きな岩の前に、高さ110センチほどのひとつの石仏が発見されたのだ。
見つかった石仏はどうやら1600年代のもの。伝説の火攻めに近い頃の石仏とあって、三村さんはここを地域の名所にしようと心に決める。
よく知った幼なじみでもある長楽寺住職の釋さんとも協力し、グループで登山道づくりに本格的に取り組むことを決めた。
まず三村さんは山を管理する森林管理署に出向き登山道づくりの許可を得た。そして費用を捻出するため、加古川市の地域まちづくり補助事業に応募する。
そうしてメンバーとともに石仏のある頂上付近まで登るルートを決め、2年をかけて2本の道を整備した。
「初めはまるでジャングルでした」当時を振り返って三村さんは笑う。
気軽に山に登ってもらえるような道にしたいと、できるかぎり歩きやすい道順を考え、道を塞いでいる木を切り出し、急な上り道には杭を打って階段をつけた。
苦労して完成した2本のルート。ふもとの長楽寺から約40分をかけて頂上まで登ることができる。
登山道はつくれば終わりではない。訪れる人がいつも歩きやすい道であるためには、登山道の保守整備が必要。こうして保守作業もグループの定期的な活動の一つにした。
階段に使用していた木の杭が腐敗してくると、プラスチック製の杭に取り換え、一段一段を作りなおした。
道筋に沿って張ったロープが古くなってくると、新しいものに取り換えた。ロープは一巻き約4キロの重さがある。男性も女性もそれぞれに重いロープを担いで、山を登る。
保守作業の時は、登山者が足を滑らせて怪我をしないよう落ち葉かきも行う。
道がわかりやすいようにと看板が設置され、グループの女性たちのアイデアで新しく竹製の手すりもつけた。
三村さんはこうした保守整備作業にかかる費用が、グループの持ち出しにならないように毎年頭をひねっている。例えば休耕田で作った野菜の販売や、地域の野球グラウンド整備の仕事を引き受けて得た収入などをこうした活動費に充てている。また、平成20年からは毎年、東播磨県民局の「東播磨地域づくり活動応援事業」にも応募、助成を獲得している。
「整備に必要な物品を購入するだけでも毎年費用が必要になる。活動を続けていくために資金繰りには気を配ってきました」
登山道の整備をはじめ、保守を続けるのは、いずれもメンバーの協力があってできる活動だ。できるだけメンバーに負担がかからないようにと、申請や報告などの事務は三村さんが引き受けてきた。
こうして、木々が鬱蒼と生え、人が足を踏み入れることもなくなっていた大藤山は、やがて登山者が訪れる地域の名所へと姿を変えていった。
最近ではついに、旧長楽寺跡と思われる場所も見つかった。現長楽寺から100mほど登った場所に仏像が納められていたと考えられる遺構が発見されたのだ。
「川がすぐそばにある場所なので、ここに寺があったとすれば生活もできる。またここから頂上の石仏の辺りまで、修行僧が修行に上がっていたのではないかと思います」
わが村には、かつてどのような人たちが暮らしていたのか、旧長楽寺とされるその場所に立ち、三村さんは思いを馳せる。
地域の歴史を発掘するこの活動をめぐっては、同じ時代を知る仲間たちとの思い出話に花が咲く。
例えば、長楽寺で夜を徹して行われていたにぎやかなお祭りの記憶。大人たちが教えてくれた蛇ヶ池の鐘の伝説に、想像を膨らませながら山を見上げた思い出。
「近所のお姉さんが蛇ヶ池で狐に化かされて行方不明になった、なんて噂も普通に流れてたね」
グループ最高齢の長谷川さんの話に、みんな笑ってうなずく。
三村さんも子どもの頃を振り返る。
「お風呂に入る時は自分たちで井戸からつるべで水を汲んで、薪を燃やして沸かした。電燈は各家に一つだけだったから、行灯を使った。そんな生活は、もう僕らの世代ぐらいまでかなぁ」
山中にあった旧長楽寺。僧侶たちも幼いころの自分たちと同じように川まで水を汲みにいっていたのだろう。山寺の生活に思いを馳せると、自分の幼年期と重なり、昔の僧侶たちの様子がありありと思い浮かぶ。
高度成長期を経て、永室ではずいぶんと多くのことが変わった。もう子どもたちが井戸から水を汲む風景はない。蛇ヶ池の伝説が親から子に語られることもない。このままだと、伝説も村の歴史も消えていくだけかもしれない。
三村さんが地域活動を学ぶために入学した高齢者大学“いなみ野学園”。地域活動指導者養成講座への参加から始まって、大学院に至るまで8年間を過ごした。
集大成となる卒業研究に選んだのは永室地域の歴史だった。
「この地に生まれて育ってきたから、ここに至るまでの歴史を知りたいんです」
そんな思いが三村さんの原動力となっている。
地道な活動によって作り上げられた登山道。実は平成23年には台風により大藤山で土砂崩れが発生。現長楽寺とともに、登山道も壊滅的な被害を受けた。二本のルートを解説した看板も流されてしまった。一方、グループの平均年齢は上がり、以前と同じ勢いで作業ができるわけではない。
しかし、三村さんらは諦めることなく、再建に取り組み、まずは登山道の通行を再開させた。看板の再建などはこれからだが、粘り強く作業を続けている。
地道に作業を続けているのは、こうした活動が地域のつながりのためにも必要だと考えるからだ。
「昔はお寺が中心となって結びつきがあったように、今は活動を通じて地域にひとつの結びつきができている。そんな風に思います」
三村さんが大切にしているのは「交流の輪」。
ふれあい喫茶には、おしゃべりの声が絶えない。席が足りずに、他の部屋を使うこともある。永室の人にとって、ここに来ることが日々の生活の一部になっている。
永室では一時地縁組織が解散していた時もある。そんなとき薄れそうになった地域のつながりをつなぎとめたのはグループの地道な活動だった。
一人の力は微々たるもの。地域の人たちとの交流を軸にして、活動の輪を広げていく。