仲川和志(なかがわかずし)62歳。1963年大阪市生まれ、関西学院大学文学部総合心理学科卒業。外資系生命保険会社を経て1991年にレコード針や産業機器を製造する日本精機宝石工業株式会社入社、2002年代表取締役社長に就任。2020年に社長退任後、2023年にレコードの体験空間を提供するFeel Recordsを本社敷地内にオープン。2024年にレコードが息づく町をめざす一般社団法人シン音泉を設立し、代表理事を務める。
人生最期の場所、新温泉町へ

自分は死ぬ。
コロナ禍のさなか、右腕と信頼していた人を病で失った。
直後に自身も体調不良に襲われたが、当時住んでいた東京は緊急事態宣言下で外出は自粛要請。発熱症状のない仲川さんを診る余裕のある病院はなかった。ネットで症状を検索すると過去に祖父や母、そして信頼していた人を奪っていった病と酷似していた。
ああ、近いうち、自分も死ぬのだろう。
自分がいなくなっても会社が困らないようにできる限りの準備をし、社長を弟に譲った。
大阪で生まれ育ったが、家業発祥の地である新温泉町浜坂には、幼いころから盆正月のたびに帰省し「家を継ぐ子」として祖父のあいさつ回りなどに同行していた。
「自分の最期の場所はここだと、刻み込まれていた」。そんな地へ、家族とともに移住した。
元気になってしまった

新温泉町は、江戸時代に北前船の寄港地として栄えた縫い針の一大産地。仲川さんの祖父が興した日本精機宝石工業は縫い針から蓄音機の針、そしてレコード針などへと製品の舵を切りながら家業を守ってきた。レコードが斜陽となっても日本、そして世界各地の愛好家たちの求めに応じてレコード針を生産し続け、現在も約2,350種類を職人が手作業で作り続けている。仲川さんは3代目社長就任後、ときにはコンビニ飯を片手に当時支社を構えていた大阪から日本各地を飛び回り、神戸に住む家族とは年の半分も食卓を囲めない日々を送っていた。
ところが新温泉町に移住して毎日妻の手料理を食べていると、みるみるうちに体が軽くなり、回復。「恥ずかしくて、しばらく病気のふりをしていたくらいです」。けれど60歳を前に、これは何か新しいことを始める最後のチャンスかもしれない。思考をめぐらせていた2022年、立て続けにターニングポイントがやってくる。
人生を動かす再会と打ち上げ花火

仲川さんの体調不良を知り、「体にいいものを食べてください」と地元のオーガニック食品を抱えて訪れた旧知の友人の岸野光生さん(拡運建設株式会社 代表取締役)。数年ぶりの再会に話が弾む中、彼が新たに始めた観光関連事業の話が頭に残った。
その再会からひと月もしないある日、兵庫工業会の酒宴の席でのこと。当時県職員として地域振興に駆け回っていた、現在シン音泉理事を務める竹村英樹さん(兵庫県勤労福祉協会理事長)が言う。「仲川さんの会社、観光業とコラボしたら?」
翌日、3年ぶりに「浜坂ふるさと夏祭り花火大会」が開催された。まだコロナ禍の余波が残る夏。久しぶりの有観客の花火大会とあって、小さな町に約5万人が押し寄せたという。花火が上がるたび歓声が沸く。「やっぱり本物は違う」と瞳を潤ませる人々を見て、「これかも」とひらめいた。
どれだけデジタルネットワークが発達しても、人はリアルな体験にしか心を動かせない。
レコードを聴く人は少ない。でも、音楽を聴く人はたくさんいる。
サブスク全盛の時代に、手間をかけてプレーヤーを調整し、レコードを選び、そっと針を落として好きな音楽に包まれる。そんな豊かな時間を過ごせるレコードの体験空間が、レコード針を造る会社の横にあったらどうだろう。
名前は「Feel Records」。
そんなレコード鑑賞を体験できる施設設立のアイデアをプレゼンすべく、自治体や観光協会にアポイントをとりつけた。
レコードが流れる町へ

あちこちで話をするにつれ、仲川さんのアイデアは、町づくりへとふくらんだ。
新温泉町にある500軒の空き家一つひとつを、レコードのアーカイブライブラリにしたらどうだろう。
角の家からはビートルズが流れる。向かいの家からはベートーヴェンやモーツァルトにハイドン。一筋向こうからはジャズ。漏れ聞こえる音楽に誘われて、世界中から集う音楽を愛する人たちが、あの家からこの家へと訪ね歩く。古い町をロック横丁、クラシック通り、ポップスにジャズストリートが交差する。ライブラリのレコードは貸し出して、レコード設備のある宿に持ち込んで流せるようにしたら?または人里離れた民家を貸し、周りを気にせず爆音で聴いてもらってもいい。食事は近隣の飲食店から運ぼう。自分ならここで何泊だってしたくなる。世界中探したって他にない町だから。
仲川さんの新しい人生が一気に動き出した。
閑話~off-topic~
自宅のお風呂から温泉が出る!?JR浜坂駅前にある足湯スポット(写真提供:新温泉町) 「新温泉町では、申し込みすれば自宅に源泉が引けるんです。我が家には浜坂温泉を引いているのですが、海の近くだからか塩分を含んだお湯で肌がしっとりします。30分くらい読書をしながら浸かるのが私の大好きな時間です。源泉が熱めなので早めにお湯を溜めて冷まさないといけないのですが、イラチなのでつい水を入れて調節してしまうんですよね。妻から『せっかく源泉100%なのにもったいない!』と怒られます(笑)あ、自宅のお風呂の写真はNGで!」
さらに深掘り-Q&A-
──「Feel Records」事業のアイデアが、なぜ「新温泉町を音楽の町にしたい」という地域活動に繋がっていったのでしょうか。

レコード鑑賞を体験できる施設「Feel Records」の新事業には国や自治体の補助金を使わせてもらおうと考えていたので、様々な方に話を聞いていただいたんです。そこで指摘されたのが、「一企業だけの取り組みでは人は集まらない」ということ。1カ月考えて出した答えが「新温泉町全体をレコードが流れる音楽の町に」という、「シン音泉」のコンセプトにもなるものでした。これを話すと面白い、やろう、手助けは惜しまないとみなさん乗り気になってくれて。
「Feel Records」はレコード好きな人が遠くからでも来たいと思えるような、音楽の町の一施設。レコードという音楽を聴く方法の中で大変上等な手段を、ときには私が製造の裏側といったストーリーをお話しながら料理とともに提供するリッチな空間です。一方の「シン音泉」は初心者の方をレコードの世界へ誘う無料イベントが中心。定期的に開催する町内での活動には地元の方も大勢来てくださいます。待っていても新温泉町に人は来ないので、「Feel Records」も「シン音泉」も、広報活動として各地へ出張イベントにも伺っています。
──新事業を立ち上げようとしたら、町づくりがついてきたと。

本当はね、町づくりの部分は自治体や観光協会、商工会が中心になってほしかったんですよ。だけど誰も動く気配がなくて(笑)。万博前に情報発信したかったし、竹村さんと一緒に自分で「一般財団法人シン音泉」を立ち上げました。企業ではなく地域活動団体としてのほうが行政や町と連携が取りやすい面もあるので結果としては良かったのですが、僕自身は最初から町づくりがしたかったわけではなく、そういう流れになっただけ。でもレコード針メーカーのオーナーという立場が活動を盛り上げることに一役買えるなら、私がやる必然性がある。旅行も好きだし、観光に携われるのは面白いです。
──町づくりに興味があったわけでもないのに、なぜ「シン音泉」の活動に懸命になれるのでしょう?

新温泉町での出会いを通し、私自身の価値観が変化したからでしょうか。都会育ちなこともあってか、昔は都会のやることがおしゃれで最先端で、正しいと思っていたところがあります。でも違った。たとえば再会した岸野さんはオーガニックカフェを経営するほど食に造詣が深く、有機野菜の農家さんの生きた知恵はいつ伺っても目から鱗。「Feel Records」の内装を委託した工務店の社長さんや設計士さんの「古いものこそかっこいい、大切にすべき」という考え方や、持ち物ひとつからセンスをひそやかに滲ませるこだわり。この地に暮らす人とじっくり話すほどに知識や思考の深さに感じ入り、ひけらかさないところも含めて本物のかっこよさだと私には思えたんです。彼らのような存在が知られ、田舎で暮らすこともおしゃれでかっこいいという価値観が浸透すれば、地方は活性化するんじゃないか。レコードがそのきっかけになれたら私が生きてきた意味があるし、今この活動をきちんとしないと、自分の人生じゃないかもしれないと思うんです。
──「自分の人生ではない」。そんな風に思われる理由は何でしょうか?

私は長男なので、昔から「家を継ぐ子」として蔵にある物の扱い方や地域でのふるまい方を教え込まれました。先代を超えようともがいた時期もあったけれど、3代目として後続にバトンを渡すだけの人生だとどこかで思っていたんです。けれど「Feel Records」「シン音泉」は祖父も父もやっていない、私が新たに始めたことだから、行政や観光関係などの人たちとお会いすると、人間力が試されているように感じて楽しいんです。

以前の自分なら、レコード針メーカーの延長にある現在を新しいとは思わなかったでしょう。60歳を過ぎた頃から自分の弱くてダメなところも、好きなことや嫌いなことも取り繕わなくなり、祖父や父の存在を含めた過去があるから今があると思えるようになったんです。過去は自分の中に取り込んで前に進もうって。すると面白いことに、人生がワープするように繋がりました。今の活動は、過去に真面目に頑張っていた私を見てくれていた人との縁や助言から始まり、レコードに関わる仕事をしてきたこと、大学で心理学を学んだこと、旅行や建築が好きなこと…自分が積み重ねてきた人生が要となっている。過去が未来の扉を開いてくれたなと思うんです。人生の醍醐味ですね。
──お話を聞くと、家業の地に帰ってきたことで仲川さんの人生が一段と花開いたような、運命めいたものを感じます。
ですが、新温泉町にゆかりのない人を呼び込むにはレコードライブラリの他にも何か必要ではないかと思うのですが、事業や活動を始めてみて見えたことなどはありますか。

レコードって、急いでいるときには絶対聞かないでしょう。余白を求めているときのものだから、観光との親和性は高いとやってみて感じています。次の一手には、「温泉で心地よい音楽を聴くことによる心と体のヘルスケア」をできないかと。私はかつて大学で心理学、特に「メンタルテンポ」という個々人が心地よく感じる言語や音楽のスピードについて学びました。聴覚は五感の中で唯一、心と繋がっているものです。温泉でその人に合わせたテンポの曲を流し、心と体の癒しを提供するようなことができないかというのは、「シン音泉」立ち上げ時から考えていたんです。
先日、人には聞こえない高音域を鳴らすスピーカーの試聴会があったのですが、聞こえていないはずなのに明らかに音が豊かなんです。学術的に、音の振動は鼓膜だけでなく肌からも受け取って聴いていると証明されているそうなんですね。ならば、裸で聞くのが一番では?と思ったんです。裸で音楽が聴けるのは、温泉しかない。貸切りの露天風呂で、音楽が肌も温泉も心も震わせる。想像するだけで気持ちいいでしょう?
──「温泉と音楽によるヘルスケア」の実現に向けて、今後はどのようなことを?

人とのつながりは作っていきたいと思っています。温泉と音楽によるヘルスケアの実現には医学的な見地を持つ方の力が不可欠ですし、脳波の計測機器や寝具・アロマメーカーさんとコラボも考えられます。また、さらなる集客を目指すなら但馬地域の横のつながりも重要になってくる。新温泉町が音楽の町ならば、演劇の町・豊岡と一緒になってやれることがありそうだと思いませんか?サブカルチャーが集まる、西の温泉がある下北沢のような地域になれたらみんな来たくなるんじゃないかなと夢を描いています。
町づくりは自発的に始めたわけではないけれど、うまいぐあいに私が扇の要になれているのかな。音楽と温泉で、人の豊かな時間を生み出す。人生の集大成として、残りの人生すべてを使ってでも実現できたらいいなと思います。
いつかバトンを渡す日まで

「私は甘えたやから。でも、過去があるから今がある。未来は過去にしか開けないとはよく言ったものだと思います」
定められた立場にも、守るべき家業にも、自分の興味にも、仲川さんはただ実直に向き合ってきた。自分の弱さも過去も全て受け入れられた今、目の前の人一人ひとりに心から向き合うこともでき、一番生き生きできる場所に立つ未来を引き寄せた。
町づくりの仕事も、いつかはバトンを渡す。でも渡す相手は決めず自然と受け取ってもらえるように、ゆっくりゆっくり音楽の町を育てていくつもりだ。
仲川さんの今が過去になったとき、音楽の町の未来の扉はきっともっと大きく開いていく。
閑話~off-topic~
人生に影響を与えた人~杉山義法先生~真ん中が杉山義法先生、左は亡父、右は27歳くらいの仲川さん 「若いころ、シナリオライターに憧れた時期があったんです。両親に話したら『そんなに甘い世界ではない、プロに会えば分かる』と、つてを辿り、大河ドラマや朝ドラも手掛けていた脚本家の杉山義法先生と会わせてくれました。お忙しい中、十代の若者と一対一で対等にお話しくださり、仕事の現場も見せてくださいました。登場人物の行動や人と人のふれあいを表にして、心の機微を緻密に練り上げていく作業などは本当に興味深く、人を知ろう、大学は絶対心理学科に行こうと決めたんです。先生との出会いも巡り巡って今に繋がっている部分があるというのは、不思議なものですね」
仲川さんのライフチャート
「今の自分目線だから、新温泉町に来てから上り調子のラインになりますね。弱い私ですが、家族にも社員にも、お客様にもずっと恵まれてきました。そして過去に真面目に頑張っていた自分がいるから、今助けてくれる人がたくさんいるのだと思います」
取材・文 鈴木茉耶


