川のせせらぎをBGMに、見上げた視線の先に広がっていたのは山肌を覆う一面の緑。甲子園球場およそ1.8個分、7ヘクタールもの茶畑に美しく並ぶ、何千本ものお茶の木です。
「新茶を収穫する時季が一番美しいんです。新芽が出揃い、茶園全体がエメラルドグリーンに染まります。」 人懐っこい笑顔で出迎えてくれたのは、野村俊介さん。神河町で300年前から続く「仙霊茶」づくりを継承した、茶園のオーナーです。
農家の高齢化や後継者不足により、平成27年に生産組合が解散。新規就農者の募集に応えたのが野村さんでした。
300年続いたお茶づくりを、新たな300年へつないでゆくために、お茶づくりと向き合う想いをお話しいただきました。
目次
医療メーカーの営業マンが、茶農家になった!
「じゃあ、俺がやってもいい?」
野村さんが茶園の継承者に手を挙げたのは、農業に取り組み始めた年の秋のことでした。
「茶園を見学する知人の付き添いで訪れたんですが、広大さにとまどう知人に代わって、私のほうが景観に心をつかまれてしまいました。木々は手入れされていて、耕作放棄地でもない。隣には茶葉の加工場もある。しかもこの絶景の中で仕事ができるなんて、最高の条件だと思いました。」
当時の様子を楽しそうに話す野村さんですが、もともとお茶にはまったく興味がなかったと言います。
大学を卒業後、医療機器メーカーに入社。
営業マンとして、大学病院などへ血液検査機器を販売していた野村さんに転機が訪れたのは、入社12年目のことでした。
新規事業の企画部へ異動になり、新しいビジネスプランのプレゼンテーションに明け暮れる日々に、
「自分が考えたビジネスに社会的意義があると心の底から納得し、この先の自分の人生を捧げることができるのか、それほど強い想いを医療の分野に持っているのか」と迷いが生まれ始めたのです。
ちょうどその頃、高校の同窓会に参加した野村さんは、朝来市で農園を営む友人と再会しました。
「彼は米と大豆の自然栽培に取り組んでいるんですが、無農薬・無肥料で良い作物を育てるためには、山からの水が豊かでなくてはいけないと、冬は林業にも携わっていると言うんです。自分の手だけで生計を立て、手づくりの家に奥さんと3人の子どもたちと暮らしている……。そんな生き方があるのかと衝撃を受けました。」
資本主義の終焉を警鐘する書籍を読んでいたことで、独立独歩で生きることを考え始めていた時期でもあったことから、時勢や外的環境に左右されにくい無農薬・無肥料の農業に興味を持ったと言います。
「会社、辞めるわ。」
自然栽培の農業を教えてくれると言う友人に宣言し、2か月後には会社へ辞表を提出。朝来市へ引っ越し、胡麻と生姜をつくり始めた数か月後、茶園と出会い神河町へ移住。茶農家として、新たな一歩を踏み出すことになったのです。
茶葉の生産者だからできる、個性的なお茶づくり
野村さんのつくる仙霊茶は、無農薬・無肥料の自然栽培。味の「ブレ」を楽しむお茶だと言います。
「一般的な日本のお茶は肥料でうま味を出した茶葉を使い、ブレンドによって味を調えます。いつでも同じ味を楽しめるのは、味の調え役であるブレンダーのおかげ。そんな第一線の人たちには太刀打ちできないと感じました。」
そこで、生産者ならではの特徴を活かそうと決めた野村さん。酒蔵でアルバイトをしていた頃、年によって品質が一定しない酒米を同じ味の日本酒に仕上げるため、杜氏たちが腐心する様子を目にしていたことで、ワインづくりの手法に注目するようになっていました。
「ワインは、仕込んだ年ごとに異なる味わいを魅力にしています。うちの茶園も、ワインのように味のブレを特徴にできると気づいたんです。摘み取った日付ごとにラベリングして販売すると、同じ一番茶でも味の違いを楽しみたい人や、誕生日に摘まれた葉のお茶をプレゼントしたいという人も現れ、人気が出るようになりました。」
この味のブレを、野村さんは「あわいを楽しむ」という仙霊茶の個性に育てています。
「あわいとは、物と物との間(あいだ)を意味する古語です。私の茶園は自然栽培と言っていますが、土地を開墾し、お茶の木を植えて育てる農業は、もともと人工的な行為。その最先端が化学肥料や遺伝子組換えなどであるとすると、その対極は、山に自生している山菜を取りに行くように茶葉を摘みに行くこと。それが、人工の対極にある自然栽培の“自然”なのかというと、そうじゃない。そうした両極のどちらかではなく、間を揺れ動き、どちらにも決まっていないどっちつかずな感じが、私の茶園や仙霊茶の良さなのだと思ったんです。」
そんなお茶をたくさんの人に手にしてもらうため、様々な工夫を凝らしています。
まずは「オーナー制度」です。年会費を払うことで、月々の農作業の報告とお茶のセットが年2回届くというもの。登録者はのべ200人を超え、贈答品やお土産として求める人も多いそうです。
一方、茶園に足を運んでもらおうと始めたのが「茶園カフェ」。令和4年5月のスタート時にはほぼ毎日予約が入り、1カ月で約150人を迎えました。園内を流れる小川のせせらぎを聞きながらお茶を飲んだり、茶摘みを体験したり、子ども連れを中心に多くの人が楽しんでいると言います。
さらに、一般の人が気楽にお茶を楽しめるよう、市民グループ「お茶(ちゃ)べり」を設立。茶摘み体験や紅茶づくり教室などを親子で楽しむイベントなどを通じ、さらに食育事業にも展開しようと取り組んでいます。 野村さんがお茶づくり以外にも積極的に活動する理由は、山肌に広がる茶畑の美しさを、一人でも多くの人に楽しんで欲しいからです。
300年続いた仙霊茶を、次の300年へつなぎたい
「茶園の中に、キャンピングトレーラーを並べてホテルにしたり、茶工場を建て替えて屋上のステージでイベントをしたりしたいんです。トレッキングルートを設置して茶園を見晴らす東屋を建てたり、フレーバーティに使うバラやジャスミンの花畑をつくったり、そんな夢も温めています。」
さらに叶えたいのは、手摘み茶葉による仙霊茶のブランド化です。
「今は機械で茶葉を刈り取っていますが、手摘みのほうが味が調った上質なお茶になります。ブランド化が実現すれば、お茶と共に茶摘み作業の価値も上がり、いろいろな人へ働く場を提供することができます。子どもを背負ったお母さんや福祉作業所の人たちなど、短時間にちょっと働ける場所になったらおもしろいなと思っているんです。」
夢がふくらんでゆく中で、うれしい出来事がありました。地元の小学校の児童たちが、茶摘み体験と工場見学にやって来たのです。
「地域を巻き込まなくちゃ、地域の人たちと関わらなくちゃと意気込んでいたわけではありませんが、学校から申し出ていただけたのはうれしかったです。地域で開墾され、維持されてきたからこそ今の茶園があります。私はたまたま引き継ぐことができただけです。『神河町には、子どもの頃から茶園があった』と子どもたちが思い出し、継承する人が出て来てくれることが、地域への恩返しになるのかなと思っています。300年続いたお茶づくりなので、さらに300年は受け継がれて欲しいです。」
「お茶づくりを辞めたいと思ったことはない」と言い切る野村さん。動いた心に素直に従う、軽やかな生き方がありました。
好きなことだけ選んだ先に、自分らしい生き方がある
「好きなことだけする、嫌なことはしない。その基準だけで、物事を選択してきました。」と言う野村さん。必要か不必要かを考える前に、好きか嫌いかに敏感になることが、これからの世の中を機嫌よく生きてゆくコツだと話します。
「『好きなことで生きていこうなんて考えは甘い』と言われていた時代は、とっくに終わっています。『好きなこと以外で生きていけるほど甘くない』のが、これからの発想です。」と言う野村さんは、好きなことでどうやって生きていくのか、必死に考えたほうがいいと言葉に力を込めます。
「AIが仕事の指示に対して99点を出せるようになった時、人間は120点を出さないと選んでもらえません。人に依頼することへの価値は、依頼者のイメージを超える内容が提案されること。それができるのは、120点を出せる好きなことしかありません。」
好きなことだけを選んできた自らの生き方を、野村さんは「タンポポの綿毛」と表現します。
「脱サラして移住したというと『すごいエネルギーですね』『大きな決断ですね』と言われますが、固い意志で会社を辞め、農業を選んだわけではありません。サラリーマンはサラリーマンとして楽しんでいたし、農業を教えてあげると言われたから、やってみようと思っただけ。嫌なことを避け、『楽しそう』『ラクができそう』『自分にもやれそう』と、風に乗って吹かれるがままタンポポの綿毛のように、ここにたどり着いた感じです。自分がやりたいことだけに集中してきたから、今があるのかもしれません。」
自然体というブレのない生き方で、野村さんは仙霊茶の味と歴史を深め続けます。