1975年加古川市生まれ。得意な英語を活かしながら、冒険には世界で2番目に広い地域で使用されているスペイン語が有用と考え、大阪外国語大学でスペイン語を専攻した。1997年に休学してアルバイトに明け暮れ、冒険費用を貯めては国内、海外の河川をカヤックで踏破。冒険の中でも社会的価値があるとジャーナリストを志し、2011年よりフィリピン・マニラ新聞で記者として活動。帰国後2014年、センサーライトメーカーの株式会社ムサシ三代目社長に就任。2016年より「ムサシオープンデパート朝市」を開催。
「気持ちとしてはいまも冒険家、ジャーナリストだが、命をかけている本物に対しておこがましく感じる」という理由で「元」付きに。
冒険のはじまり


カヤックひとつを相棒に冒険に出た。
大学を休学して四万十川など日本の川を8本下った翌年、アラスカ、そして南米の大湿原パンタナールへ。地図は頼りなく、ひとつ岸を離れたら次はどこに接岸できるのか分からない。一瞬の判断の遅れが死につながる環境で、判断力はもちろん生き抜くための動物的な勘、不穏さをかぎ分ける嗅覚が研ぎ澄まされた。
冒険とは、死と隣り合わせの危うきに近づくこと。
冒険への渇望が自分のどこから湧いてくるのかは分からない。死の影が濃く深くなるほどに輝く生命の光にどうしようもなく惹かれるのだ。
けれど、命を賭けるならば誰もやったことのない、社会的に意味のある冒険をしたい。ジャーナリストという職業に社会的価値のある冒険性を見出し、フィリピンで働いたあと、国外から見た日本の植生や文化の厚みのすばらしさを再確認し、加古川へ戻った。
利己から利他へ

帰国後もジャーナリストの道は模索していた。だが、合気道と出会い、人生のすべてを大きく変えることにした。冒険やジャーナリズムを追いかけるのは若い自分の利己的な願望だ。周囲の人や世界はそんなもの関係なく回る。だから一度、自分が思索を重ねて築いてきた論理のしがらみを脱ぎ捨て、目の前の人を幸せにすることに集中しよう。決めればやることはシンプルだった。まず長年のパートナーと結婚して義理の父を喜ばせ、次にムサシの後継者に頭を悩ませていた父に聞いた。「俺が継ごうか?」
自由に生きる息子の言葉を父が信じてくれるまで、このあと数年かかることになる。
あなたが笑えば

合気道とは、人と人がふれあい関わる中で、最良の関係性を創り続けることをめざす道。例えば、道に落ちたごみを拾う。代表を務める株式会社ムサシの草刈機の試運転を、近所の土手やあぜ道で行う。ただそれだけのことでも、手が回らずに道が荒れていたり、草がぼうぼうだったりで困っていた地域の人が、いつの間にかきれいになっていることに喜んでくれる。社会との接続点が増えれば、人は自然と次は何をしようか考えて動くようになる。そんな循環を創っていけたらいいと、社員が健やかに働けること、加古川に住む人が元気になれると思うことにどんどん手を付けていった。
目の前の人が笑えば、生きている確かな手ごたえを感じられる。それがいいのだ。
人を人たらしめるもの

ある日、これからの未来を想像した。
少子高齢化が進む日本で、妻に先立たれ独りで暮らす、老いた自分。スーパーへ行き、夕飯にうどん一玉とねぎ、油揚げをカゴに入れ、セルフレジで会計をして家へ帰る。自動化された町で、一日中誰とも喋らず、ただ日々が過ぎていく。
…そんな世の中、人の営みとして絶対におかしい。
海外の市場のようすがまぶたの裏に浮かんだ。ビチビチ跳ねては目の前で捌かれてゆく魚に、山盛りの濃い黄色のマンゴー。ヤシの葉を寝床に親父が昼寝をし、怪しげな露天商が店を広げている。「これはな、こう食べたら美味しいで」「食べ盛りの子がいるん?おまけするわ」。食物という命をやりとりする商いの熱気の中で交わされる会話には、濃厚な暮らしの気配が立ちのぼる。そんな場所が、人間には必要だ。幸い、経営者となったことで自分ができることの幅は広がった。こうして「ムサシオープンデパート朝市」が始まった。
閑話~off-topic~
影響を受けた人 本多勝一「『冒険論』の著者です。京都大学探検部の創設者であり、その後、朝日新聞のエース記者として活躍した人。彼のルポを学生時代に読み、冒険の定義や本質を教えてもらいました。自分がやりたい冒険とは何かを考え、社会的冒険をしようという答えを出せたのは彼のおかげ。また、冒険とジャーナリズムが結びついたのも本多さんの影響です」
さらに深掘り-Q&A-
――岡本さんの冒険の定義とは何なのでしょう。

まず私は、自分の人生を「冒険」ですべてくくっています。冒険家、ジャーナリスト、社長と変遷を重ねたのではなく、ずっと冒険をしている。そして命の危険を冒す、と書いて「冒険」なんですよね。そして命の危険の大小と、その行動における社会的意義の大小で冒険の性質は変わります。一番想像しやすいのはエベレスト登頂や秘境探検といった地理的冒険。他に、死ぬ確率も社会的意義も高い革命という政治的冒険、許されない恋の逃避行は恋愛的冒険と言えます。

私が最初に行った川下りは地理的冒険で、死と隣り合わせだったのはパンタナール湿原です。あるとき、背後に真っ黒なトルネードの雲が湧きだした。気づいた瞬間から4~5時間かな、全速力でカヤックを漕いだんです。目的地の岸辺に着いてカヤックを引き上げた瞬間、凄まじい暴風雨と雷に襲われてね。もし雲に気づくのが、全力で漕ぎ始めるのがあと数分でも遅かったら、川にのまれて命はなかったでしょう。1時間後、いえ1分後に生きているか分からないような生活を3カ月半も続けたものだから、判断力や行動力は研ぎ澄まされました。ただ、そこで命を賭ける意義は地理的冒険にあるのかということを考えた。他の人ができない、やらないことをしたいし、命を賭けるなら社会的価値の高い冒険がしたい。それなら先人が踏破したことのある秘境に再び挑むようなことは、私がやるべき冒険ではない。一方、今の経営や地域活動は、命の危険はほとんどないけれど社会的意義のある、私にしかできない社会的冒険なんです。
――経営者となる前は、フィリピンでジャーナリストとして活動されています。これも社会的冒険の一つでしょうか。

はい。ジャーナリズムを志したのは、命を賭ける意義があり、社会的価値の高い活動を考えたときにジャーナリストの仕事が一番近いと考えたからなんですね。主権者が政治的判断を行うために提供する情報は、戦場に行ってでも伝えるべきもので、民主主義を支える仕事ですから。講演会で知り合った記者に「フィリピンのマニラ新聞は近年で最もジャーナリスティックにやっている」という話を聞いて直接連絡し、採用されました。
でも、現地駐在の日本人向けに時事面から文化面まで幅広く取材できて面白かったけれど、3年もすると建国から日が浅い国ゆえか文化的な厚みが満足するものではないことに気づいてくる。またフィリピンは生物多様性のホットスポットと聞いて楽しみにしていたのに、環境破壊による影響が強まっていることもあり、この国で見るべきものは見たなと思い、帰国しました。
――フィリピンを離れた後、別の国へ行くこともきっとできたはず。なぜ日本に、加古川へと戻ったのですか。

まず、海外から日本を見ると文化、歴史、自然、地質学どれをとってもすごいということに気づきます。日本のマンガやアニメが世界で話題ですが、庶民の趣味として歌舞伎や浄瑠璃などが親しまれ、役者の姿が浮世絵に描かれていたものがルーツでしょう。また世界一大きな大陸と広い海に挟まれ、4つのプレートが交わる地質学的な重なりは、火山をはじめ多くの山々をつくり出した。変化に富んだ環境は生物多様性を育み、地域ごとの多様な文化を生み出している。我々が活動拠点にしている日岡山公園は元々古墳で、数百年前の遺跡の上に子どもが走り回る公園として活用されている。こんなふうに生活と歴史が同居している風景は他国にはそうそうないんですよ。さらに、今挙げたものが一つの国にまとまっているのなんて日本しかない。どれほど奇跡的なことか、外から見たから分かったのです。
中でも加古川は、大阪や神戸といった都市圏にも近いし新幹線で東西へ行きやすく、実は利便性の良い立地。拠点とするには良いと思ったんです。そうして腰を落ち着けてみると、祖父の代からこの地で商売をしてきて培った地縁が根付いている。数十年懇意にしている電気屋さんからなら、メンテナンスが複雑だけど良い機器を買えるとかね。この地を離れてしまうと消えてしまう人とのつながりの厚みが、私の人生を豊かにしてくれるんです。振り返ってみると、年月を積み重ねて得られるものを重視しているのかもしれません。こうして何かに気づくごとに、戻ってきてよかったと思います。
――合気道に影響を受け、人生を変えたときの状況や考えについてもう少し詳しく聞かせて下さい。また抱いてきた冒険への渇望はおさまったのでしょうか。

2008年頃に、内田樹(うちだたつる)師の道場へ毎週通うようになりました。何か劇的なきっかけがあったわけではなく、道場での稽古や師匠の著作には自分の現状について考えるきっかけがたくさん落ちていた。そのうちジャーナリズムをやりたいという自分の想いは、自分のまわりの人や世界には全くもって関係ないな、と思ったんです。壮大なものを背負い込む性質なので「世界はこうあるべきだ」「自分がこれをやるべきだ」と駆け抜けてきましたが、若さもあって利己的であったなと。だから一旦全部やめて、目の前の人を幸せにしよう、役に立とうと決めました。当時恋人だった妻の父に病が見つかり、余命宣告を受けたことが最後の一押しになりましたね。結婚なんて、人間関係を役所に登録するだけの作業、人の営みに必要ないからする気はなかったんですよ。でも、すれば親父さんが喜ぶのは分かっていた。だから拗らせた考え方を捨ててすぐに結婚し、子を授かった報告もできた。簡単なことです。冒険への渇望は本能的なものなので、今も体の奥底に横たわっているけれど、目の前の人のために生きると決めたときから一旦棚上げしていますね。
――岡本さんにとっての地域活動や社会貢献とは何なのでしょうか。

シンプルに「目の前の人の役に立ちたい」という想いの延長です。実は個人や会社、地域の明快な線引きはなくて、常に自分が立っている場所でどんな貢献ができるのかを探している。
そもそも私はいつでも、今一緒にいる人を笑わせたい、喜ばせたい人間なんです。会議中も隙あらばユーモアを挟みたいし、餅つき大会の準備をして集まった人がわいわいしているのを見ると、満足する。そして人が喜ぶというのは、その人に本来の元気さが戻ること、心や体が活発になる状態だと思うんですね。相手が元気になるというのは、会社という組織や加古川という地域にも当てはまる。会社ならたとえ目先の売り上げが落ちていても、組織が活発な状態を維持できれば数年後の未来を信じられるでしょう。地域の会社が元気でいられるように動いていれば、必然と地域も社会も元気になっていくし、逆に地域が元気でなければ何も始まらない。全てつながっているんです。
社会貢献というものも、他の人のためにドアを押さえるとか、スタジアムのごみを拾って帰るとか、小さなことが積もり積もって大きな貢献になるのだと思う。ほんの小さなことででも社会との接続点を増やすことで、自分にできることというのは見えてくるんです。
――「ムサシオープンデパート朝市」を始めたのも、社会貢献のひとつなのですね。

ええ。無人レジや販売所が広がり、自動化が進む世の中で、失われたものの象徴が市場のようなものだと思ったんです。並ぶ品々や売る人に背景があり、飛び交う会話の情報量が密な場所。今、海外で見かけるようなどこか混沌とした市場のようなものが必要だと。だから「ムサシオープンデパート朝市」が目指すのはスポット的なイベントではなく、日常の暮らしを豊かにすること。毎週欠かさず市場をひらいて、暮らしの中にコミュニケーションが根付いていくことが重要なんです。最初は会社の駐車場の片隅で始めた朝市ですが、今は毎週500~1000人くらいに来てもらえるようになったので、一定の成果はあるんじゃないかな。会社の事業として行ってはいますが利益が出ているわけではないし、出そうと思っているわけでもない。市場にやって来る、目の前の人を幸せにするためのものです。でも「あの会社があるといいことがある」と思ってもらえると採用に困らなくなったり、新しいことを始めても信頼してもらえたりと、地域と良い関係性を築ける。その場においてベストなふるまいを行い、相手とのスムーズな関係構築を目指す、私が考える合気道の実践でもあります。
――市が公募した「かわまちづくり」プロジェクトへの参加やサッカーチーム「チェント・クオーリ・ハリマ(CCH)」のオーナー就任は、朝市の発展形であり拡大であるようにも思えます。

加古川市が推進する「かわまちづくり」は、土手にカフェを造ることで市街地と川をつなぎ、人の動線を作ってにぎわいを生み出そうという試みです。私は私でやはり川には思い入れがあるし、朝市と組み合わせて何か川の街の役に立つことをしたいとちょうど考えていたところだったので、事業者として参加することにしました。川べりで朝市やったら楽しそうでしょ。
関西サッカーリーグ1部「チェント・クオーリ・ハリマ」は、知り合いの紹介で2022年にスポンサーを始めました。ただ代表と会って話すうち、こんなに一途に面倒なことを懸命にやる人間が加古川にいたのか!と感動したんです。私もまだ知らなかった、加古川のポテンシャルですよね。彼らは加古川の子どもたちのためのサッカーチームを作りたいと言う。そして集まった選手たちをプレーヤーとして育てるだけでなく、良識ある社会人として自立させ、セカンドキャリアにも困ることのないようにしたいと。ぜひサポートしたいと、出資に加えて日岡山公園で試合がある日は周辺で朝市を、試合実況付きでやることに。J5に相当するリーグなので、試合の観客って、普通は数十人くらいなんです。それが急に1000人以上の観客が見るわけだから、最初は選手も驚いたようです。

でも数ヵ月もするとお客さんも馴染んで、飲み食いしながらゲームを見るようになる。私は持ち前のサービス精神で、勝てば軽トラの荷台いっぱいの飲み物を無料で振る舞ったり、ジムニーに監督を乗せて朝市の中をパレードさせたり、調子に乗って盛り上げてね。2024年末にチームの方から「オーナーになってくれないか」と打診がありました。迷ったものの承諾したのは、サッカーって誰もが知るスポーツで、リーチできる層が本当に広い。ムサシという会社も朝市もそうですが、尖ったことをすればするほど興味を持つ人が限定されて、その他の人たちには広がりにくくなるという罠があるんです。メジャースポーツと関わりを持てたことで、今までになく広く多くの人に想いを届けられる可能性があると思っています。
2025年3月にオーナーとなってからは練習にも顔を出して、暑い日は井戸水を軽トラに汲んでプールにして選手を冷やしたり、たまに一緒にランニングしたりしています。「そんなオーナー見たことない」って、これもまた選手が驚いていますね。
次なる冒険を探して

生命のエネルギーを感じられるか否かが、岡本さんの行動原理なのではと問うた。
現代の人間は、考えすぎて元気がなくなっている。これからAIの時代に入り、もっと理屈抜きで感情が震える身体的活動を人は心から求めるようになる。私が絶対に大切だと信じてやってきた活動は、これからさらに必要なものになっていく。だから、社会に対してできることを今日も探している。と彼は答えた。
最後に、棚上げした冒険にはもう出ないのか?と問うた。
今がどんな世界情勢だろうが、100年前と比べたら死ぬ必要のない社会に世界は進化した。冒険家の出番は減った。だからビジネス領域でインパクトのある社会貢献を探しては行動してきた。
でも、もし命を賭けるべき社会的冒険が見つかったら。
明日にでも社長を降りて追いかける。と彼は答えた。
冒険は続く。
閑話~off-topic~
フィリピン在住時代の冒険「マニラ新聞の記者時代に一番手ごたえがあったのは、世界で一番汚い川と言われるパシッグ川をカヤックで下るルポを連載したこと。起点のバエ湖にあるティラピアという魚の養殖小屋の取材に始まり、下流に向かうごとに徐々に汚くなっていく水をちょっと飲んでみて水質レポートをしたり、川辺の生活を書き綴ったり。大統領宮殿の裏手に川が回り込んでいて、そこを通過するときは警備の舟が「何してるんだ……?」って出てきましたね。新聞購読層の日本人駐在員は高級住宅街しか目にすることがないから、フィリピンの庶民の生活を伝えると反響がありました」
「アジアクロスカントリーラリー」のメインスポンサーに就任
(写真左)2025年のAXCR(アジアクロスカントリーラリー)にて。(同右)あらゆる能力を伸ばすために続けているオフロードバイクレース 「モータースポーツのアジアクロスカントリーラリーは、アジア地域のためにアジア人がアジア人のためのラリーを作ろうと日本人が主催してきたものです。そのメインスポンサーに2026年より就任しました。
会場となることが多いタイに株式会社ムサシの市場価値を見出したこともありますが、何よりモータースポーツほど人間らしいスポーツはないと思っているのが就任理由。人間が扱いきれるかきれないかという機械を創り、乗りこなせるようライダーを鍛え上げ、燃料を投入し駆け回る。人間って昔から荒ぶる神々を鎮めるとか、強いエネルギーを発するものを制御することを好むでしょう。それに本質として、命に触れる遊びが好きなんですよ。今後は「チームムサシ」に所属する日本のライダーを育成し、モータースポーツ界の世界への窓口としての役割も担っていくつもりです」
岡本さんのライフチャート
「自分に起こる出来事はプラスかマイナスという一面的なのではなく、プラスマイナス両面、あるいはそれ以上に多義的な意味を持つものだととらえています。ならば様々な出来事が起き続けている昨今の私は、プラスマイナスの振れ幅が大きくなり、周波数が増えているような状態と言えるでしょう」
取材・文 鈴木茉耶


