工業大学出身の音楽教師、鈴木史朗さんは、今も歌い継がれる「新相生ペーロン音頭」やど根性大根讃歌「夢に向って」など120曲を作曲した。多感な時期に戦争を体験し、相生市をハーモニーの町にしようと85歳の今もピアノを弾いて、歌い、指揮をして、合唱指導に走り続けている。
姫路工業大学(現兵庫県立大学)機械科卒業という希代の音楽教師、鈴木さんは、時計商の長男として生まれた。音楽との初めの出会いは3~4歳のころの「いたずら」。長姉が弾く足踏みオルガンに近づき、背伸びしても見えない鍵盤をたたこうと必死になった。「音にひきつけられたのか、じゃまをしたかっただけなのか。よく姉とけんかになりました」と笑う。
楽器や歌を習うことはなかったが、本物の音楽を聴く機会には恵まれた。播磨造船所(現(株)IHI)が開催したコンサートには当時一流のアーティストがしばしば招かれ、町の子どもたちも気軽に入ることができたのだ。ゴザ敷きの観客席でじっとしていられず、舞台にかぶりつきになっては叱られた。進水式ではブラスバンドのさっそうとした光景に胸が躍った。造船の町で鈴木さんは、生活の中にある音楽を、釣りやベーゴマで遊ぶのと同じように楽しんでいた。
少年時代は戦争によって暗転した。「13~15歳頃は死ぬことを覚悟した」という鈴木さんは思い出すのも辛いと声を落とす。学徒動員で姫路の工場にいる時に空襲があった。絶望する家族のもとへ、焼夷弾が降り注ぐ焼け野原を歩き、口々に唱える念仏を耳にしながら、鈴木さんは生還した。
終戦直後、抑えられていた思いが音楽に向けられた。友人5、6人で軽音楽バンドをつくり、鈴木さんはアコーディオンを借りて我流で弾き、ブリキ缶のラッパやギターと合わせた。ただただ音を楽しんだ。「アメリカの雑誌か何かに『早くも焼け跡から平和の音楽が』というような記事で、姫路城の大手門をバックに戦闘帽にゲートルをまいた私たちの写真が載ったんです」と鈴木さん。人々の目には平和の象徴のように映っていた。
その後鈴木さんは病に伏して、新制高校に切り替わったばかりの市立姫路高等学校に1年遅れて入ることになる。年下の同級生を率いて音楽部の合唱班と吹奏楽班を創部し、初代部長となった。姫路市公会堂(現市民会館)で指揮者デビューも果たし、初めての作曲をしたのもこのころだ。
高校卒業後は武蔵野音大を受けようとこっそり上京したが、親に見つかり連れ戻された。鈴木さんが「おやじは、男が歌ったりアコーディオンを弾くのを快く思わなかった」という。それは終戦直後の工業都市の風潮でもあった。音楽とは程遠い姫路工大に進んだ後は、反発心も手伝って、グリークラブを発足するなどますます音楽に熱をそそいだ。
SL関連の工場に就職を決めたが、男性の音楽教師を探していた兵庫県の指導主事から声がかかる。しかし、再び父に猛反対された。説得し続けて1カ月たったころ、部屋にピアノが置いてあった。抽選でないと買えない時代だ。
鈴木さんの目に涙があふれ、「やったる」と心に火がついた。後の生涯、行くところ行くところで合唱団・部の創部や創設に砕身することになる、鈴木さんを支えた出来事だった。
音楽教諭の免許はなかったが、太子町の石海中学校に赴任し、数学も教えながら免許取得に励んだ。寝台車で12時間かけて東京の音大まで何十回も往復、通信教育も受けながら約5年で免許を手に入れた。「結婚したばかりの妻にもずいぶん助けられた」という。
その後、相生市内の中学校に赴任。いずれの学校でも音楽と数学の二足のわらじに加え、合唱部・吹奏楽部の指導と野球部の監督も務めた。なかには暴力で新聞を賑わした学校もあったが、「やんちゃな生徒を野球部に誘い、しばらくして合唱コンクールに出場させた」という。暑い中で野球の練習をしても平気な生徒が、コンクールの舞台で貧血になったことがある。
「それほど緊張するということを知りましたなあ」と鈴木さん。幼いころ、造船の町で本物の音楽に触れた自身の経験から、あえて生徒を大舞台に連れて行き、他校の優れた合唱を聴く機会を大切にしたと語る。校内音楽会では生徒・職員・PTAの発表の後、プロやセミプロの音楽を聴く構成にした。
また、市立3中学校合同のブラスバンドを結成して、ペーロン祭などの行事に参加。さらに児童合唱団、PTAや市立幼稚園職員によるコーラスグループなどの創成に関わり、指導した数は両手に余る。革新的な行動に対して時には批判も受けたが「工大出身の音楽教師」という経歴をポジティブにとらえて型にはめずにまい進し、頼まれるままに地域の音頭や県内外の校歌、園歌などの作曲も手掛けてきた。多忙な中で120曲も作曲してきたのは、「市民や生徒たちが喜んで楽しそうに歌う姿に感激したから」。中でも「新相生ペーロン音頭」は、長年市民に親しまれ、相生を代表する曲になっている。
鈴木さんは、学校を核に、家庭、社会へ「ハーモニーの和を広げる」信念と願いを貫いて、教職員生活を全うした。
現在、学校での教え子や保護者の多くが、鈴木さんと「高齢者仲間」となり合唱を楽しんでいる。「病院、居酒屋、市内のどこに行っても会ってしまうので困る」と、鈴木さんはうれしそうに話す。
来年創立35年を迎えるコーラスサークル「ステラコール」は、毎月2回、西部公民館で鈴木さんの合唱指導を受ける。男女約40名、平均年齢70歳弱。那波中学校コーラス部出身の内海加代子さん(65)は、「迷っていましたが、鈴木先生がいらっしゃるので」と、今春入会を決心し、「中学時代を思い出す」と鈴木さんの弾くピアノに声を合わす。
3年ほど前ステラコールは、大雨被害に遭った佐用町立幕山小学校を慰問し、鈴木さんが作曲した校歌を合唱した。犠牲になった当時1年生の児童の祖父の涙に鈴木さんの胸も熱くなった。
鈴木さんはこのほか、高齢者大学や施設でのボランティアも継続している。特別養護老人施設グリーンハウスには20年間、毎月A3用紙3枚に約20曲の歌詞を手書きして持参する。歌わずに座って聴いているだけの人もいるが、よく見ると足でリズムをとっていたり、涙ぐんでいたりする。近くの施設の知的障害のある人も参加しており「気持ちがおだやかになる」「直後の昼食はふだんより食が進む」と、職員も笑顔で話す。
施設でのボランティアを持ちかけられた当初、多くの指導先を掛け持ちしていた。鈴木さんは断ることも考えたが、見学に行ったときに「人が音楽で変化する」様子を見て、「これや」と改めて気づいたという。
「童謡には知恵はいっぱい詰まっている。懐かしさが高齢者の脳を刺激する」と、「童謡・唱歌を歌い継ごう会」も新たにつくり、世代を問わず広めている。以前は各所へ原付バイクで通っていたが、杖を持ち、送迎の車にお世話になる鈴木さん。だが指導に入ると30分立ち通しで指揮をする。行く先で共に楽しむことで鈴木さんも元気になるという。
教え子から送られてくるCDや活躍を知り「これが一番うれしい」という。しばらくやめていた作曲活動も「一つ頼まれているのがあって」と、再び楽譜に向かう鈴木さん。音楽とともに、これからも人々に元気を届けていく。