「もともとまちづくりには、まったく関心はなかったんです。」
玉田さんの凛とした声が、部屋に響く。
「19年前、姫路市商工会議所青年部から、29歳以下の若者たちで始める『ひめじ良さ恋まつり』の立ち上げプロジェクトに参加してほしいと声がかかったんです。周りはまちづくりに関心のある方たちでいっぱい。いつの間にか引っ張られ、私もまちづくりとつながっていたという感じでした。」
その後、ひめじ良さ恋まつりは参加者がどんどん増え、ボランティアだけでは運営ができない規模に成長していった。
「法人にして、しっかりとした基盤をつくろう。」
ひめじ良さ恋まつりに携わって3年が過ぎた平成14年、そう決心した玉田さんはNPO法人姫路コンベンションサポートを設立。姫路市が観光を一つの産業として取り入れる決定をしたことも後押しとなり、まちづくりと真正面から向き合う日々が始まった。
まちを訪れた人にどう楽しんでもらえるか、また来たいと思ってもらえるか。それが観光都市としての市民の大きなミッションと語る玉田さん。
「まちのおもしろさをつくるのは、『文化』と『人の顔』だと思っています。文化とは変わり続けていくことです。ハード面でもソフト面でも、いつ来ても違うまちが見られること。そこから新たな気づきをもらえること。いろんな人に出会って『今おすすめのものは何か』『この辺りにおいしいケーキ屋さんはあるか』って話ができること。つまり、まちの人たちが、外から来た人を、どうもてなすことができるかです。」
そんなおもてなしのまちを目指し、姫路コンベンションサポートは文化を育て、人をつなぐ活動を、積極的に展開している。例えば、商店街に敷いた350枚の畳の上の異業種交流会「姫路畳座」では、毎回1,000人以上を動員。
「姫路城英語観光ガイド養成講座」は、11年間で300人以上が受講され、60人以上がボランティアガイドとして活動している。今年からボランティアガイドは自主運営に任せ、国家資格を持つ通訳案内士とともに、地域の良さを深く知っていただくインバウンド活動を始めた。
姫路駅前では、都会と田舎をつなぐ拠点として、宍粟市のアンテナショップ運営にも携わっている。
そんな中でも、姫路コンベンションサポートの顔ともいうべき取り組みが「銀の馬車道」劇団だ。
「銀の馬車道って知ってる?」
11年前のある日のこと。当時の中播磨県民局担当者からの問いかけが、劇団旗揚げのスタートだった。
銀の馬車道とは、生野の鉱山から姫路の飾磨港まで、鉱石を運び出すために造られた日本初の産業高速道路のこと。今では道の名称だけが残されている地域遺産の一つだ。
「中播磨の地域おこしとして活用したいという相談だったんです。」
ほとんど現存していないものを、どうアピールすればいいのか? 相談した松竹新喜劇のプロデューサーから提案されたのは、「住民たちで劇団をつくる」というものだった。戸惑いながらも、福崎町の小学校が計画中だった創立百周年イベントに、地元の人たちを劇団員として集め公演を行うことを決意。平成19年7月、募集に応じた総勢40名の仲間と共に、「銀の馬車道」劇団が活動を開始した。
試行錯誤を重ねた3カ月後の10月31日、公演は1,300人もの観客を動員し大成功。翌、平成20年の神戸新聞社会賞受賞を追い風に、11年間で16回もの公演を継続。平成24年に「銀の馬車道プロジェクト」が公益財団法人日本ユネスコ協会の「未来遺産」に、さらに平成29年には銀の馬車道のストーリーが文化庁の「日本遺産」に、それぞれ選定されるまでになった。
「日本遺産に選ばれた今、銀の馬車道を、沿線住民に周知するという当初の役割は終えたと思っています。今後はどう形を変えていくか考えている途中」と語る玉田さんだが、その一方で「銀の馬車道」劇団は、もうひとつの大きな役割も果たしていた。芸術で地域を創り出すというミッションだ。
「演劇活動をしていなければ、生野に住む高校生の男の子と、下の名前で呼び合う関係には絶対なれませんでした。劇団が与えてくれたのは、まさに人そのものでした。」
それは同時に、地域づくりに「人」が欠かせないものであることの証でもあった。
「部活や受験で参加できない時期を迎えた子どもたちも、翌年には、劇団の活動に戻ってきてくれるんです。入団時に小学5年生だった子どもたちが大学生になり、就職活動をするようになりましたが、『故郷が好きなので、地元で就職したい』と、地元で就職を決めた子もいるようです。地域の活性化は、自分たちの地域にどんな愛着を持てるか、どんな誇りを持てるかが基本だと思います。そういう意味では、劇団の活動が地域づくりに一定の成果を残したと言えるのかもしれません。」
それも、継続したからこそ言えることだと玉田さんは言う。
「1回で終わっていたら、何も気づけなかったと思います。11年前には、小学生が大学生になるまで成長を見続けられるとは思ってもみませんでした。今後は、劇団に関わった人たちがノウハウを自分の地域で活用することで、初めてまちづくりに貢献できたと言えると思っています。」
ひめじ良さ恋まつりの立ち上げから、NPO法人としての自主事業、そして劇団の運営まで、様々な活動を通して玉田さんが一貫して向き合ってきたのは、人そのものだった。
「本気で『まち』をおもしろくしたい人を全力サポート!」
玉田さんの名刺に記された、ひときわ目を引くフレーズだ。19年前、まちづくりの輪に引っ張られた玉田さんが感じたおもしろさ。それは、「まちづくりに関わると、人が自主的に動き出す」ということだった。
「世代が違えば違うほど視点が違うんです。異なる視点を合わせながら、お互いの考えや立場を尊重することで、周りの人たちが自主的に動いてくれるようになる。それがまちづくりの基本なのだと気づかせてもらいました。」
違うタイプの人がいればいるほど、おもしろいものが出来上がる。たくさんの人と、どうコラボレーションしていくかが、これからの時代のあり方と語る玉田さんの次の目標。それは、まちに興味のある20代、30代の若者を増やすことだ。
「28歳の私に声をかけてくれた姫路商工会議所青年部の人たちと、今の自分が同じ立場に立てているか? 若い人たちが『やりたい』と感じるものに出会えた時、参加できる仕組みを考えたり、同じ興味を持てる仲間を増やしたりしていくことが、これからの私に与えられた一番の仕事だと思っています。」
そんな仕組みづくりの一つとして、来年3月9日に「国際女性デー(*)」のイベントとして「ハッピーウーマンフェスタはりま」を姫路で開催するプロジェクトが動き出している。
「女性が輝けるまちは、素晴らしいまちです。そのためには、男性も輝けるまちでないと魅力がありません。両輪がうまく回る仕組みをつくる第一歩です。」
新たな取り組みに向かって挑戦を続ける玉田さんを支えるもの。それはこれまでの、成功できなかった体験から生まれた持論だった。
「周りの人から『やる前から失敗するってわかっていた』と言われることでも、自分でやってみないと『あ、これは失敗だ』とか『やるんじゃなかった』って気がつかないんです。」と笑う玉田さん。
「NPO法人を作ったら何とかなると思っていたんです。でも、法人にしたら電気代も水道代も人件費も稼がなくちゃいけない。何ともならなかった。」
特に印象深い一つが、最初に手がけたアンテナショップ。
「忙しくなればなるほど、人件費も固定費も設備費も配送料もかかるのに、全然気が付いていなくて全然うまくいかなかったんです。」
スタッフが次々に辞めていく辛い体験もした。そんな試行錯誤と失敗を重ねた結果、泣く泣く閉めることになったショップだったが、そんな失敗の中から玉田さんは大きなものを得たことに気づく。人との縁だ。
「そのショップがご縁で週末元町マルシェ(*)の運営に関わることができ、さらに現在、姫路駅前で運営している宍粟市のアンテナショップ「きてーな宍粟」に広がっていきました。地域と地域、山間部と都市部をつなぐことで、一年間で2倍の売上を生み出すほど姫路駅前の活性化に貢献できました。また『休耕田をもう一回耕そうと思う』という生産者さんたちも現れ、地域おこしにつながるきっかけにもなっているんです。」
17年間の積み重ねの中、圧倒的に多いのは成功よりも失敗体験。そして、起業当初に出会った人たちをはじめ、イベントや日々の事業活動、劇団運営に関わり続けた人たちとのご縁の数。
失敗の数だけ得た成功へのノウハウと人とのつながりを手に、玉田さんはこれからも、まちを元気にしたい人たちを全力で応援し続ける。