その西脇市を中心として発展してきた播州織は、先に糸を染めてから織り上げる先染め織物。安価な海外製品に押されて一時は存続が危ぶまれたが、近年は、染から織、仕上げまで産地で一貫した工程を行える強みを生かし、国内向けの高品質製品として再び勢いを取り戻しつつある。
福井県に生まれ育った玉木新雌さんは、武庫川女子大学の生活環境学科で学んだ後、専門学校でファッションの勉強を重ねた。卒業後は大阪の繊維専門商社でパタンナーとして就職したが、仕事に物足りなさを感じてデザイナーとして独立。自分が欲しいと思っている布を求めて新たな活動の場所を探していた時にめぐりあったのが播州織だった。そのあり方に未来性を感じた玉木さんは、5年前、西脇に移り住み、播州織作家としての道を歩み始めた。
玉木新雌さんは、福井県勝山市の洋服と化粧品を販売する家に生まれた。子どものころは洋服の仕入れについていくことが楽しみだったと言う。
「仕入先でたくさんの服に囲まれて、その中を歩き回るのが大好きだった。自分の好きな服を買ってもよいといわれたときは、とても嬉しかった」
初めて自分で作ったのは小学生の時、家庭科の課題のエプロンだった。決められたように作らなくてはならないのだが、ポケットだけは自由につけてよいと言われ、友だちは、刺繍をしたり、アップリケをするなど、それぞれに工夫を凝らしてポケットをつけた。玉木さんが作ったポケットは、両側から手を入れられるもので、その発想にみんな驚き、とても好評だった。
その頃から、ファッション雑誌についている型紙を使って、自分で服を作るようになり、将来は服を作る仕事をしたいと思うようになった。着心地の良いものを好きなように作りたいという思いは、このころ芽吹き、今日に至っている。
「自分の子どもには、自分の作った服を着せたい」というのが、小学校の時の夢だった。福井県の高等学校を卒業後、西宮市にある武庫川女子大学の生活環境学科に進学。
卒業後、更に服作りの完成度を上げるために大阪の専門学校で学び、アパレルメーカーに就職。パタンナー(デザイン画を洋服にするための型紙をつくる人)として働き、1年10ヶ月後に独立した。
生まれ故郷の福井の織物は絹から化学繊維に変わっており、後染めということもあって、自分の作りたいものになじまないと思い、ふるさとに帰ることは早々に断念した。自分の居場所を探し、日本中の織物産地を見て回る中で目に留まったのが播州織だった。
真っ白な布を大量に織ってプリントしていく方法とは違い、播州織は染めた縦糸と横糸が重なり、さまざまな表情を見せてくれる。その魅力に将来性を感じ、播州織に取り組むことに決めた。
生活の拠点を大阪に置いたまま、職人さんに織ってもらい、大阪で販売するというスタイルを3年近く続けた。独立してブランドを立ち上げる時に出会った職人の西角博文さんは、自分の思い描いていたとおりに織り上げてくれる頼もしい存在だった。
西角さんとの共同作業で作品をつくり、販売を続けていたが、そんなある日、西角さんはふと口にした。「いつまでも自分を頼っていたのでは駄目だ。俺が織れんようになったらどうするねん」
この言葉で、玉木さんは西脇へ移住することを決意した。「自分で織ろう」 織り機を譲り受け、自ら織機の前に立つことにした。
歴史ある地場産業の中に入っていくのは、周囲から批判の目もあり、都会に住むのと違ってやりにくいと感じることもあった。しかし、時間が経つにつれて、廃業する機屋(はたや)さんから機械を譲ってもらったり、自社で作ることができないときは、他所の機屋さんに織ってもらうよう頼めるようになったりと、協力しあえる関係を築きながら、地域の中に自分の居場所ができたことを感じられるようになった。
次第に特色の薄いシャツ生地製造業が主流となりつつあった播州織。それに甘んじつつも、「このままでよいのか?」と地元の人たちが気づき始めたころに移住したことが、スタート台に立つタイミングとしてラッキーだったと玉木さんは語る。
独立当初は、そのシャツ生地作りから始まった。ある時、生地を開発している中で、縫うことが難しいほど柔らかい生地が織り上がり、首に巻いてみるととても気持ちが良いことに驚いた。失敗したかと思った生地が、肌の敏感な人にもストレスなく身につけてもらえる綿菓子のようにフワフワしたショールの誕生に結びついた。
玉木さんは、現在、ショールを中心にシャツやパンツ、バッグなどを作っており、今年から子供服を作り始めた。より柔らかい生地を使って着心地が良くて動きやすい服を、甥や姪、従業員の子どもたちに着てほしいと思ったのがきっかけだった。
産地にいても工場に発注していたのでは、都会にいるデザイナーと同じであると考え、アトリエに機械を導入した。機械と対話しながら様々な糸を使って試作を重ね、tamaki niimeのショールが生まれる。織り上げられたショールは1枚ずつ縫製し、洗いをかけて天日干しする。
1965年製のヴィンテージものの機械を使い、彼女自身が時間をかけて織り上げた1点ものの作品「only one shawl」は、ガーゼのような風合いが人気を博し、空気を纏っているようなふんわりと軽い巻き心地を体感した人たちがリピーターとなっている。
先染は織る現場でデザインが決まり、織り上げまでのすべての工程を同じ場所で完結させることができる。「自分の作りたいものを作る」という思いを貫くために選んだ新天地西脇は、実際に住んでみると、都会での生活で感じていた息苦しさに煩わされることもなく、また職人さんの近くにいることで注文がしやすくなるなどの利点も多かった。頭に浮かんだアイデアを、すぐに試作してもらって形にできる。デザイナーにとっては理想的な環境だ。西脇に住むようになって初めて、「ここで創っている」ということを実感したと、玉木さんは言う。
情報があふれる都会から移り住んだ西脇のまち。「人間らしい環境」と玉木さんの語るこのまちで、一緒に働くスタッフは、12人。ミーティングでのみんなの意見を、作品作りに反映させている。
「新しいことにチャレンジするのではなく、変化と進化を繰り返しながら、創っています。全国各地で展示会を開催し、最近では、アメリカ、イギリス、カナダ、ベルギー、台湾など海外でも扱っている店が増えました」
西脇市が日本の中心であることを意識した tamaki niime in Japan としたブランドマークが、世界という舞台で現実味を帯びてきた。
玉木さんの座右の銘は、論語にある「わが道 一を以って之を貫く」。孔子が弟子の曾参に語った言葉で、福井県の実家で書き初めとして書いたこともあった。
「私は今までの長い人生を通して、生き方の根本は終始一貫して変わるものではなかった」という意味のその言葉に、「自分の作りたいものを作る」という思いを貫き通してきた自らの人生を重ね合わせる。
今年の正月、祖母がお年玉と一緒にその書き初めを送ってくれた。自分の手によるその字と向き合い、これから自分の歩いていく道についての思いを新たにしている。