多可町で生まれ育った山根加織さんは、小学校3年生の時に「多可町立中町北小学校 播州歌舞伎クラブ」に入部。プロの播州歌舞伎役者・中村和歌若師匠の指導を受けて初舞台を踏み、播州歌舞伎に夢中になった。一時期、地元を離れ播州歌舞伎から遠のいたが、今では中学生から50代までの約25人で構成される「多可町中央公民館 播州歌舞伎クラブ」の代表を務め、公演活動のほか、小学生の指導にも力を入れている。
「播州歌舞伎」は、約300年前に始まった「高室芝居」をルーツとする地歌舞伎。その伝統を唯一今に伝えるのが「嵐獅山一座」で、その本拠は多可町中区にある。
30年程前、旧中町(現多可町中区)で郷土の伝統芸能や文化財を生かした「ふるさと教育」が始まり、あらためて地域の文化を見直したところ、「播州歌舞伎」に着目することになった。そして、地域の伝統の保存・継承に小学生や若者が中心となって関われるよう、ふるさと教育の一環として、昭和63年5月、中町北小学校に播州歌舞伎クラブが発足した。
その後、隈取(歌舞伎独特の化粧法)をデザインしたコミュニティバスの運行、屋外舞台を設置した「那珂ふれあい館」の開館、町内の小学生が週1~2回のペースで播州歌舞伎の稽古をつけてもらえる「カブキッズたか」の開講など、意識せずとも自然に播州歌舞伎にふれられる環境が整っていった。こうした町の取組の積み重ねが、次代の担い手の育成にも一役買っている。
山根加織さんは中町北小学校の卒業生だ。小学校の播州歌舞伎クラブは小学校3年生から入部できるが、一足先に入部していた姉の影響を受け、2年生の時には顧問の先生に入部宣言していた。入部後の山根さんは、中村和歌若師匠(「嵐獅山一座」の役者、播州歌舞伎の指導者として県内外で活動)の手ほどきを受け、播州歌舞伎に夢中になった。中学生になると、「多可町(旧中町)中央公民館 播州歌舞伎クラブ」に加入。ごく自然な流れで播州歌舞伎に関心を寄せ、演じることの面白さに魅了されていった。
9歳で初舞台を踏み、播州歌舞伎とともに過ごしてきた山根さんは、「多可町中央公民館 播州歌舞伎クラブ」に加入後も稽古に夢中になっていた。
しかし、進路を決める時期になると、高校3年生のメンバーたちは徐々に稽古場から遠のいていき、山根さんもその例外ではなかった。そして、高校卒業後は進学のために岡山市へ移り住むことになり、はっきりとした区切りをつけないまま播州歌舞伎から離れてしまった。
岡山市での3年間の勉強を終えて地元で就職した山根さんは、ふと思い立って多可町中央公民館に立ち寄った。そこで、偶然にも中村和歌若師匠と再会した。師匠は山根さんの腕をつかみ、かつて一緒に稽古した「多可町中央公民館 播州歌舞伎クラブ」のみんなの前にひょいと突き出した。思いがけず再会した師匠と仲間を前にして、空白の時間は瞬時に解消した。これを機に山根さんはクラブに再加入し、小学生のころよりも一層、播州歌舞伎の稽古に精進した。
1年程経ったある日、山根さんはクラブ事務局から代表指名の打診を受けた。「私を指名した理由はわかりませんが、他の社会人メンバーよりも出席率が良かったからかもしれません」と当時のことを楽しそうに山根さんは話す。
そのときはまだ、代表としてクラブをまとめていくこと、指導者として伝承することへのプレッシャーを感じていなかった。むしろ、役者としてだけでなくさまざまな角度から播州歌舞伎に携われることが、山根さんの好奇心をくすぐった。そして、山根さんはさらなる播州歌舞伎の道へと進むことになる。
クラブ代表になった山根さんは、師匠が子どもたちへ指導をしに行くときに同行する機会が増えていった。そのなかで、小学生への指導の仕方をはじめ、隈取の施し方、着付けなど、舞台にまつわる重要な要素を一つひとつ貪欲に吸収していった。
やがて山根さんにも小学生を指導する機会が訪れ、その難しさに直面して愕然とした。小学生から見れば母親よりも若い「お姉さん」だ。年齢も風格も異なる師匠が指導する時とは違って、子どもたちはなかなか言うことを聞いてくれなかった。思うように指導できず、もどかしさを感じていた。
しかし山根さんは、それぞれの子どもに合わせた教え方があることに気づく。
師匠の代理として岐阜県に指導に行ったときのこと。子どもたちが台詞を頭に入れてきてからの2週間は、本番まで毎日つきっきりの指導だ。最初は子どもたちのエンジンのかかりが遅くてハラハラさせられていたが、この地域の伝統であり、神聖な祭りの舞台に立つことに誇りと責任を感じている子どもたちは、本番が近づくと一気に仕上げた。その瞬発力や集中力に驚かされた。
また、地元の「中町北小学校 播州歌舞伎クラブ」では、発表会直前の稽古にもかかわらず台本が手放せない児童がいた。台詞覚えに集中させたところ、発表会では立派に演じ切ることができた。
こうして指導者としての経験を重ねて指導方法に緩急をつけられるようになってきた山根さんは、「師匠のように良いところは褒めますが、はっぱをかける意味で厳しい言葉も投げかけます。信じて接すれば、頑張ろうという意欲がわきますから」と、力強く語る。
「師匠からも小学生への指導を受け継ぐように指名されたわけではないんですけどね」と楽しそうに話す山根さんだが、日増しにクラブ代表としての責任感はもちろん、播州歌舞伎の伝承者としての自覚が大きくなっている。そうした播州歌舞伎の指導が地域活性化に貢献していると認められ、山根さんは平成23年に内閣府から表彰(社会貢献青少年表彰)された。山根さんにとってもクラブにとっても励みになっている。
山根さんの好きな言葉は「大丈夫、なんとかなる!」。ポジティブマインドになれるというこの言葉は、子どもたちへの指導の場面でもよく口にする。
「師匠はよく播州弁で『べっちょない(大丈夫)』と言ってくれましたね。褒められるのが嬉しかったから、私は播州歌舞伎に夢中になれたのだと思います」
播州歌舞伎だけでなく、人生の師匠でもある中村和歌若師匠が今年2月に他界した。創立時からの指導者を失い心配する声も聞かれるが、小学3年生から播州歌舞伎に取り組んできた山根さんたちは、師匠の遺志を受け継ぎ、播州歌舞伎を次代へ伝える活動や上演による普及活動に全力を尽くす決意を新たにしている。