NPO法人多言語センターFACIL 理事長

すごいすと
2014/09/25
吉富志津代さん
兵庫県神戸市
NPO法人多言語センターFACIL 理事長
阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸市長田区。なかでもJR鷹取駅周辺は家屋の倒壊とその後の火災とで灰じんと化した。吉富志津代さんは、駅にほど近いカトリック鷹取教会(現:カトリックたかとり教会)を拠点に、救援活動を始める。

韓国・朝鮮系をはじめ、ベトナムや南米系など多様なルーツを持つ人々が多く住む長田区での活動で、言葉の壁から必要な情報が彼らに届いていないことが明らかになった。そこで多言語放送局の立ち上げに関わり、被災・生活情報を日本語以外でも発信し始めた。現在も続くコミュニティ放送局「FMわぃわぃ」の前身である。

また、震災時は多くのボランティアによって行われていた通訳・翻訳の活動分野をコミュニティビジネスに発展させるために、「多言語センターFACIL」を設立。現在、通訳・翻訳をベースに、地域社会と外国人コミュニティをつなぐため、さまざまな事業を展開している。

NPO法人多言語センターFACIL吉富志津代さん

老若男女、国籍も関係ない場

吉富さんが、支援活動をはじめた長田区野田北部地区と最初に関わりを持ったのは、震災の2年前のことだった。

平成5年、市民団体に招かれる形で、スペインから「ベンポスタ子ども共和国」というサーカス団が来日し、国内各地で公演を行った。外語大を出て領事館などでスペイン語を使う仕事に就いていた吉富さんは、神戸公演でボランティア通訳を務める。その神戸での歓送迎会が行われたのが鷹取教会だった。

ベンポスタは、さまざまな国出身の子どもたちが中心となって構成され、サーカスで世界に平和のメッセージを伝えていた。当時、小学生の子ども2人の母親だった吉富さんは、いきいきと活動する彼らの明るく逞しい姿に魅了され、勇気づけられた。

神戸での日本最終公演が終わり、地元住民が中心となって、教会近くにある大国公園で打ち上げの盆踊り大会が開かれた。地域の人たちが河内音頭や炭坑節で踊る盆踊りの輪の中に、ベンポスタの子どもたちや運営ボランティアが加わった。地域の人たちも、彼らからサルサダンスを教えてもらって一緒に踊った。

「年齢、性別、国籍も関係なく、みんなで踊ったことが今も目に焼きついた心に残る思い出です」

その後の吉富さんが「多文化共生」の具体的なあり方をイメージする時、いつも思い起こされる象徴的なシーンとなった。

震災翌年秋の「復興まちづくりまつり世界鷹取祭」には、ベンポスタのサーカス団も参加した。

 

多言語による情報の発信

平成7年1月、阪神・淡路大震災が起こった。幸い自宅の被害が軽微で済んだ吉富さんは、ようやく連絡の取れた鷹取教会にとにかく駆けつけ、神父に何か手伝いたいと申し出る。

たまたま仕事を辞めたばかりだったこともあり、焼け跡にテントを建て地域の救援基地として機能していた鷹取教会に通い始め、炊き出しや救援物資の配布、ボランティアの調整、多言語に翻訳した情報の配布といった支援活動を始めた。

救援基地では、夜になるとボランティアたちが、たき火のまわりに集まって暖をとり歌った。

被災した地域では、外国籍の被災住民が言葉の壁や偏見などからトラブルに遭っていた。

倒壊した自宅から避難所に持ち込んだ食料を盗んだものと疑われたベトナム人。日本語がうまく話せないため誤解が解けなかった。自宅の電話が使えず母国に連絡しようと誰でも使える避難所の電話の列に並んだフィリピン人。「避難所以外の人間は使えない」と追い払われた。

そこで、日本語の理解が十分でない被災者を支援する組織が立ち上がり、教会の一角で多言語によるラジオ放送をスタートすることになった。日本語の案内しかなかった炊き出しや救援物資の情報、罹災証明や義援金の受け取り方法などの震災・生活情報をラジオで発信し始めた。

多言語で放送することで、外国人に確実に情報が届くことになるとともに、ここに外国人が暮らしているという事実を地域住民たちに改めて認識してもらうことにもつながった。

震災発生からちょうど1年後、このラジオ放送はコミュニティ放送局「FMわぃわぃ」として国の認可を受けた。扱う言語数も10言語に増え、震災20年を迎えようとしている今も、「多文化共生と人間らしいまちづくり」というテーマで活動を続けている。

東日本大震災で被災した宮城県のフィリピン人女性たちによるラジオ番組制作の支援も続けている。

緊急時から日常生活の支援へ

被災した外国人の中には、具体的な支援の受け方以前に、支援を受けられること自体を知らず、一層厳しい避難生活を送っている人たちがいた。

震災前、前職の関係で、来日したスペイン語圏の住民から日常的な相談を受けていた吉富さんは、言葉の壁などが引き起こす問題があることはわかっていた。

その課題が震災の発生によって地域社会で露呈し、普段の暮らしの中で、必要最低限の情報すら日本語の理解の不十分な住民に着実に行き届いていない現状を浮き彫りにした。

「日本語が不自由な人たちに母語でわかりやすく伝えるという活動は、震災といった緊急時に対処療法的に行うだけでなく、日常生活の場でこそ必要だと改めて実感しました」

 

震災から4年後の平成11年、吉富さんは、震災時に活躍した日本語とそれ以外の言葉ができるボランティアたちを中心に、それまでは無償ボランティアだと考えられていた分野の通訳・翻訳活動を事業化するために、「多言語センターFACIL」を立ち上げた。

緊急時を機に、日常生活の活動として分野の幅を広げたFACILが力を注ぐプログラムのひとつが、平成13年からスタートした医療通訳システム構築にむけたモデル事業だ。

医師と患者との意思疎通は時として生命に関わる重要事項であるにもかかわらず、通訳の手配やその経済的負担を含め、日本語の理解が不十分な患者側がすべての責任を負うものとみなされる傾向がある。社会が現場の実情を理解し、医療機関と患者の双方の言葉の壁を取り払うためのサポートの仕組みを構築していくことが必要だと吉富さんは指摘する。

「医療通訳」への理解を深める目的で制作されたPR映像。

また、拠点をおく鷹取の地域で、神戸市からの依頼を受けてFACILが翻訳したゴミ出しのルールの多言語版をベースとした案内板が作られた。出身国を問わず、そこに暮らす人たちすべてに情報が伝わり、それが当たり前となる地域を作ることが吉富さんの目標だ。

震災をきっかけに始めた活動は、外国人の日常生活を改善するだけでなく、双方向のコミュニケーションを促進させることで地域住民の意識を変え、同じまちで共に暮らしていく姿勢を根づかせ、まちの活性化につながった。

長田区内に設置されている日、英、中、ハングル、ベトナムの言葉で表示されたゴミの案内板。

「一度理解しあえたからといって、すべてうまく行くわけではありません。医療通訳も地域との関わりもそうですが、どんなことでもマメにメンテナンスすることが大事だと考えています」と吉富さんは強調する。

FACILで扱う言語数は当初の12言語から38言語へ、通訳・翻訳の登録者数も約80人から848人へと順調に数を伸ばす(平成25年10月 現在 )。

想像と創造

多言語による情報発信、多様な文化背景を持つ子どもたちの育成活動、外国人自助コミュニティの運営支援、行政機関への政策提言など、吉富さんの活動範囲は多岐にわたる。

現場の知見やノウハウを社会に根づかせるため、現在吉富さんは大阪大学で教鞭を取りながら、研究活動や論文発表を精力的に行っている。

 

そんな吉富さんが、学生たちによくかける言葉が「想像と創造」だ。

学生たちと接していて気になるのは、想像する力が足りないと感じること。創造、つまり何かをつくり上げるには想像する力があってこそ。そのことを若い人たちに伝えたいと語る。

学生たちのフィールドワークとして、FMわぃわぃが恊働するインドネシアのNGO「コンバイン」とともに被災地の村を訪れ、コミュニティ防災の活動状況を学ぶ。

「活動を続けてきて思うのは、成果とはすぐに出るものではないし、何事も少しずつしか変わらないということ。これはNPO活動も教育も同じです。やり続けることで少しずつ変わっていく。これが“ゆるゆる”とした居心地の良い社会の成熟につながると信じています」

自らの信条、生き方である「Que sera sera」(ケ・セラ・セラ=「なるようになる」の意)を座右に、多様な人々が手を取り合う多文化共生社会の実現にむけ、今日も自分にできる活動を地道に続けている。

(公開日:H26.9.25)

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