神戸市灘区では商店街や摩耶山を舞台に、いつも面白そうなイベントや企画があふれています。例えば、商店街のつまみぐいツアー、摩耶山のかつてのにぎわいの跡をたどりながら山下りをする「摩耶山・マヤ遺跡ガイドウォーク」、標高700メートルの展望台「掬星台(きくせいだい)」でのフリーマーケットやコワーキングスペース。神戸マラソンにライバル心を燃やした「東神戸マラソン」……。これは全部、慈さんが手がけたものです。阪神・淡路大震災を機に東京から神戸に戻り、地域活動を続けて25年。灘を知り尽くした人という意味で、いつしか「ナディスト」と呼ばれるようになりました。そんな慈さんに、面白い仕掛けを考える秘訣や、行政と協働するときに大切なポイントを聞きました。
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慈さんを神戸・灘に引き戻した、阪神・淡路大震災
慈さんが灘を舞台に現在のような活動を始めたきっかけは、平成7年、阪神・淡路大震災で実家が被災したことでした。東京で働いていた慈さんは地震が発生した1月17日、当時婚約中だった妻の両親から大地震の発生を知らされます。翌18日、弟から「避難所にいる。」と電話があり、家族の無事を確認、すぐに神戸へ向かいました。
「新幹線が動いていたのは京都まで。京都からJRに乗り換えて大阪へ行き、阪急で西宮北口まで来られましたが、そこからは歩いて帰ってきました。歩きながら見た街の壊滅的な様子は、衝撃的でした。」
震災後、神戸市内各地に復興のための「まちづくり協議会」ができました。慈さんは地元の「味泥(みどろ)復興委員会」で、事務局的な仕事を買って出たのです。
「この状況を見て、何かせなあかんと思いました。復興委員会のメンバーは高齢者ばかりで大変そうやったから『手伝います』と言ったんです。」
しばらくは会合の日程に合わせて東京から神戸に帰っていましたが、平成8年の春、復興活動に腰を据えようと東京での仕事を辞めてUターン。住民と行政の橋渡し的な役割を担いました。
今につながる灘の楽しい企画を始めたのは、そんな震災復興のさなかの平成9年だったといいます。最初の企画は、灘のスポット写真を掲載するフリーペーパー「naddism(ナディズム)」です。
「まちづくり協議会がきつかったんですよね。復興に差が出て住民同士で喧嘩することもありましたし、最終的には当時最年少で、市全体のまちづくり協議会の会長にもなって。復興が大変なのは仕方ないけど、それと並行して、もっとまちと楽しく関わることがしたいと思いました。」
このフリーペーパーを知り合いの居酒屋などに置いてもらい、手ごたえを感じたという慈さん。
「第1号で特集したのは、灘のトンネルばかりを集めた『灘の穴』。震災後にこれやるか?っていうくらい能天気な企画でした。でも、結構好評だったんです。やっぱりみんな、昼間は復興でしんどい。夜にちょっと力の抜けるまちの話題があると、盛り上がるんやと感じましたね。」
次に平成11年から始めたのが、灘の情報だけを発信するメールマガジン「naddist(ナディスト)」です。まだメールに画像を添付できない時代、50メートルの路地を数メートルずつ歩いて文字だけで紹介する、というようなマニアックな内容が面白がられました。
「神戸に住んでいなくても灘の情報を知ることができるので、灘の出身者など、読者が1,000人ほどにまで増えました。メールマガジンを1通出すと感想や新しい情報がバーッと返ってくるから読者コーナーを作ったりと、双方向でやっている感じが楽しかったですね。せっかくこれだけ読者が増えたのならと、まち歩きイベントを始めたんです。」
これが、現在の慈さんの原点なのですね。
思わず笑ってしまう面白い企画、どうやって思いつく?
慈さんの真骨頂といえば、企画のユニークさです。旧摩耶観光ホテルなど、摩耶山に残るかつての痕跡を「マヤ遺跡」と呼び、その“遺跡”をたどりながら山歩きをするガイドウォーク、摩耶山にある標高700メートルの展望台「掬星台(きくせいだい)」に強力なWi-Fiを引き、椅子を貸し出し、山上でリモートワークができる体制を整えた「Work702」。
神戸マラソンのコースが灘区・東灘区を通らないことから、“本家”と同じ日に灘区・東灘区の歩道で、交通ルールを守りながらフルマラソンの距離をジョギングする「東神戸マラソン」など、挙げればキリがありません。
ネーミングを聞いただけでクスッと笑ってしまうものばかりですが、こういう企画を考えるとき、頭の中はどんな思考回路になっているのでしょう?
「まず一番は、自分が楽しいかどうか。もう一つは、なるべく他の人がやらなさそうなことを選びます。例えば、山といえば登山やアウトドアじゃないですか。でも、それはどこでもやっているから、そこに『仕事』を組み合わせたらどうかなって。新しいものをゼロから作るんじゃなくて、今ある地域資源の中で異質なものをあえて組み合わせると、面白くなるんです。」
フリーペーパーやメールマガジンを編集していただけあって、その着眼点は編集者そのもの。
また慈さんは、日常の何気ない風景をスペシャルに変える達人でもあります。例えば、ある駐車場にできた水たまりを見て、「ここ、魚屋さんが来たときだけ海ができるんです。」。商店街に運ばれた魚を生け簀に移すとき、漏れ出た水が水たまりになります。その水は海水なので、よく見るとエビや貝がいるのです。それを「海」と表現したんですね。
フリーペーパーでトンネルを「灘の穴」と捉えたときもそうですが、ごく普通のありふれた風景の中に面白さを見いだすその視点、どうしたら身につけられるのですか?
「風景って『自分の外のもの』として見る限り、普通なんです。それを、『水がたまっているという出来事』として見ると、なぜここに水がたまっているんだろう?となる。そこに疑問を持って近づくと、エビがいる!となる。なんでここにエビがいるんだろう?と指で水を舐めてみるとしょっぱい。そうか、海水なんだ!こんなふうに、まちの出来事をちょっと深掘りしていくんです。そうすると、日常がめちゃくちゃ面白くなりますよ。」
地域活動をしているかどうかに関係なく、誰でも生活をちょっと楽しくできる視点の持ち方ですね。
「僕の活動範囲が灘の内だけなのは、これで精いっぱいだから。これを神戸市全体に広げたら、人生を棒に振ってしまう。」と、慈さんは笑います。
地域住民の熱意が生み出した「坂バス」
JR灘駅から水道筋商店街を経由し、神戸高校や摩耶ケーブルの乗り場まで走るコミュニティバス「坂バス」をご存じですか? 平成25年に運行を開始し、急な坂道の多い灘エリアの南北移動で住民生活の貴重な足となっています。
実は慈さん、この坂バスの発起人の一人であり、命名者でもあるんです。どういう経緯で坂バスができたんでしょうか。
「まちづくり協議会に関わっていたご縁で、『なだだな』という灘の情報紙の編集のお手伝いをしていたんです。復興がある程度進んだ頃、若手メンバーで灘の未来を考えようという話になって。摩耶山からのロープウェイとケーブルをHAT神戸(県立美術館などのある湾岸エリア)まで伸ばせば、サンフランシスコを超えるまちになる!と提案したんです。」
それが「灘区南北交通の充実」として、灘区の中期計画に取り入れられました。平成24年に社会実験を行い、翌年から本格運行。初めこそ神戸市の社会実験でしたが、今は行政の補助金は一切入っていません。
「いかにして乗ってもらうかと、地域住民が一生懸命あれこれ考えました。バスの中でライブをやったり、戦隊ものの衣装を着て『坂バスレンジャー』をやったり。婦人会の皆さんなんて、自腹で買った回数券を周りに配りますから。それを見てバス会社が『地域がこれだけ盛り上げてくれるなら、赤字でもやります。』と言ってくれたんです。コミュニティバスがうまくいっていない地域は、行政任せになっているのかもしれませんね。」
地域をつくるパートナー、行政とのつき合い方は?
地域活動をしていると、行政とやりとりをすることが何かと出てきます。住民の皆さんと行政は地域をともにつくるパートナーですが、行政と聞くと、初めは少し構えてしまうかもしれません。より良い関係を築くには、どうすればいいでしょうか。
「行政に『お願いする』んじゃなくて、『一緒にやる』という気持ちを持つことだと思います。何かしてほしいことがあったら、署名や陳情も悪くないけど、まず自分たちで汗をかいて動いてみる。それが地域の活性化につながることなら、行政側が『手伝います』と言ってくれますから。」
住民と行政が協働することで、当初の計画が大きく変わったこともあります。神戸の「100万ドルの夜景」が見られる展望台「掬星台」への足である「摩耶ケーブル」が、利用者の減少で廃止の危機に陥ったことがありました。
そのとき、慈さんたち地域住民が「摩耶山再生の会」を結成し、行政がすることと住民側がすることの分担を示して「一緒に守って残しましょう」と提案したそうです。具体的な提案をしたことが功を奏し、廃止の方向で進んでいた計画が覆り、存続が決まったのです。
「職員の皆さんは廃止のための調整をしていたから、当時は戸惑っておられましたけど、今はみんなで摩耶ケーブルを残そうという気持ちで一致しています。やっぱり、行政におんぶに抱っこではだめですよね。」
年齢を重ね、若い世代との感覚の「ずれ」は?
阪神・淡路大震災を機に神戸へ帰郷したときは20代でしたが、いまや50代半ばの慈さん。若い人との感覚の「ずれ」を感じることはないのでしょうか。
「今の若い人は、やっぱりまじめですよね。僕たちの頃は『まちづくり』という言葉もなかったけど、今の人はまちづくりの知識を持って入ってくるから『いいことをしよう』『役に立つことをしよう』という思いが強い。でも、それを目標にするとしんどくなるから、まず自分が楽しいことをやって、結果的に地域の活性化につながるのが道筋だよと、若い人にはよく言ってます。」
今後もっと年齢を重ね、現在のような活動が難しくなってきたとき、慈さんの後を引き継いでくれる人がいるのかと尋ねると、「僕みたいな人がいてほしいかと客観的に考えると、いらんと思うんです。」と返ってきました。
「もっと普通でいいんです。イベントじゃなくても、今日は都賀川(とががわ・灘区を流れる川)でお昼ご飯を食べようかなと、まちを使いこなして楽しんでくれる人が増えるのが、一番嬉しいです。突飛なことをする人は、いなくていいです。」
しかし、慈さんがちょっと突飛なことをするのは、「こんなふうにやったら面白いよ」と周囲の心のハードルを下げたいという思いがあるからです。
「年いった僕がハチャメチャやってると、若い人に『あれでええんや』と思ってもらえますからね。大人になったからといって、賢そうなことをしなくてもいいんです。幸い、灘には地域活動をする若い人が結構います。そのとき大事なのは、僕たちのやり方を押し付けないこと。僕たちも若い頃、先輩から『面白いんちゃう?やりやり』と後押しをしてもらったから、自分たちもそうありたいと思います。」
最近は、灘の昔の気象や地質にまで遡り、まちの成り立ちを深掘りすることに凝っているという慈さん。目の前の何気ない風景を「出来事」として見ること。毎日をちょっと楽しくするヒントを教えてもらった気がします。