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加西市鶉野を平和学習のまちに!
飛行場跡を“戦争遺跡”に再生させた
上谷昭夫さんの“使命”

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2021/03/15
上谷昭夫さん
(82)
兵庫県加西市
鶉野平和祈念の碑苑保存会

個人紹介

上谷昭夫(うえたにあきお)82才。昭和13年、京都市生まれ、高砂市在住。高校を卒業後、上水道工事の建設会社に入社。勤務していた営業所が鶉野飛行場跡のそばにあった縁で元特攻隊員たちと出会い、鶉野飛行場の歴史調査を開始。戦争の記憶の風化を危惧し、史実を記録・保存しながら次世代に伝え残す活動に取り組んでいる。平成11年、鶉野平和祈念の碑苑保存会を設立。平成26年には、記録・保存した史料や写真を展示する鶉野飛行場資料館を開館。その他、海軍航空隊員が利用していた現在の北条鉄道「法華口」駅のボランティア駅長、鶉野飛行場周辺にある戦争遺跡のガイド、備蓄倉庫に展示されている局地戦闘機「紫電改(しでんかい)」(*)の解説など、鶉野飛行場跡の語り部の第一人者として活動を続けている。

*局地戦闘機「紫電改」:第二次世界大戦末期に登場した旧日本海軍の戦闘機。鶉野飛行場の南西にあった川西航空機(現・新明和工業株式会社)姫路製作所鶉野工場で、戦闘機「紫電」と合わせて約500機が組み立てられた。

 

昭和32年、運転免許を手にしたばかりの上谷さんが初めて車を走らせたのは、鶉野(うずらの)の静かなまちに横たわる、長さ1200メートル、幅60メートルのコンクリートの「道」でした。数年後、そのすぐそばにある会社の営業所で働き始めた上谷さん。偶然の出会いから、その道は、第二次世界大戦中に姫路海軍航空隊がパイロット養成のための訓練場所として建設した、飛行場の滑走路だったと知りました。それから28年という年月をかけ、地元の人々にさえ知られていなかった飛行場跡の史実を掘り起こし、平和を語り継ぐための戦争遺跡としてよみがえらせていきました。「命をかけて日本を守った先人のことを知ってこそ、未来の平和につながる」と語る上谷さんの、活動への想いをうかがいました。

 

目次

戦史の調査・研究へ導かれた、元特攻隊員たちとの出会い

 

上谷さんが勤めていた営業所で、元海軍兵士たちの訪問を受けたのは、平成5年の夏のことでした。
「ここに姫路海軍航空隊の飛行場や、戦闘機の組立工場があったんですが、本部庁舎や格納庫がどのあたりにあったかわかりませんか。」

彼らの質問に、戦時中の出来事を全く知らなかった上谷さんは答えることができず、調査することを約束。調べ始めた上谷さんは、この飛行場跡が攻撃機パイロットを養成するための訓練場だったこと、戦闘機の組立工場があったことを知りました。さらに、戦争に関する当時の史料がほとんど残されていないこともわかりました。
その後、加西市が飛行場跡で航空ショーを開催する情報を得た上谷さん。「この飛行場跡でもう一度飛行機が飛ぶなら、戦友たちと再会したいと言っていた彼らが集まる機会になるのでは。」と、営業所を訪ねてきた海軍兵士たちに連絡。平成6年11月の航空ショー当日、市から借り受けたテントを張って彼らを出迎えました。テントの中は、同窓会さながらににぎわい、戦闘機の組立工場で働いていた学徒動員の女性や、航空隊の元兵隊、飛行機の練習生だった人々が集まり、300枚近く用意した資料も瞬く間になくなったといいます。

この日を境に、元海軍兵や戦闘機の製造に携わった人など、当時の様々な関係者が上谷さんを訪れるようになりました。中には、飛行場での訓練の様子や施設の配置図、隊の組織などを何百枚も手書きでまとめたものや、兵舎、戦闘機の写真など、たくさんの貴重な資料を上谷さんに託していった人もありました。
「当時、加西市の市史編さん室に尋ねても、なかなかわからなかったことばかり。史実として後世に残さなくては、鶉野飛行場の歴史が永遠に消えてしまう。」
そう感じた上谷さんは、本格的に史実の掘り起こしを始めました。夜行バスを利用して防衛省へ何度も通い、防衛庁防衛研究所戦史図書館(現・防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室)で調べたり、当時の生存者たちを訪ね歩いては聴き取り調査を重ねていきました。
こうして集めた数々の記録を基にまとめた、鶉野飛行場の史実を雑誌に投稿。この投稿記事が発端となり、上谷さんにさらなる出会いが訪れました。。

 

鶉野飛行場の滑走路にある備蓄倉庫に展示されている局地戦闘機「紫電改」(実物大模型)

鶉野飛行場の滑走路にある備蓄倉庫に展示されている局地戦闘機「紫電改」(実物大模型)

 

姫路海軍航空隊でパイロットを目指していた練習生

姫路海軍航空隊でパイロットを目指していた練習生

 

鶉野飛行場の歴史を、史実として伝え残すために

 

「訓練をしたこの思い出の地に、亡くなった特攻隊員63名を弔う慰霊碑を建てて欲しい。」
攻撃機の最後の訓練生だったという人が、雑誌への投稿記事を読み、上谷さんの元へやってきました。鶉野にも特攻隊にゆかりのある人たちが多数いたことから、平成10年、鶉野平和祈念の碑苑建立実行委員会(平成11年に鶉野平和祈念の碑苑保存会、平成28年に一般社団法人化、以下保存会)を立ち上げ、祈念碑の建立に向けて動き出しました。海軍飛行予科練習生だった人、休日の兵士たちを家庭に招いてもてなした人、さらに地元の自治会関係者も加わり尽力した結果、平成11年11月、平和を語り継ぐ「平和の祈念碑」が完成。保存会の主催により、毎年10月の第1日曜に祈念式典が開催されています。

一方、上谷さんは史実の調査・保存活動に、ますます深く取り組んでいきました。平成 11年および14年には、調査研究の成果をまとめた著書を出版。平成16年には、調査で判明した史実を多くの人に知って欲しいとの想いから、兵庫県いなみ野学園(*)に入学しました。
「飛行場のことを、多くの人に向けて発表する機会ができるのではないかと考えたんです。おかげで大学の研究発表や大学院の卒業論文を通じ、鶉野飛行場の史実を記録として残すことができました。」

こうして上谷さんが一つひとつ掘り起こした史実を活かすため、戦争遺跡として地域づくりに活用しようと動いたのが加西市教育委員会でした。平成22年から、飛行場跡の一画に研究センターを構えていた神戸大学と共に、歴史遺産としての学術的な基礎調査を実施。飛行場跡の周辺に残る防空壕など、数々の遺構も含めた戦争遺跡としての開発と、保存活用への動きに拍車がかかる中、平成26年、上谷さんは飛行場跡地のすぐそばで、空き店舗を利用した資料館を開設。特攻隊員たちの遺書や鶉野飛行場の歴史など、貴重な資料や写真、また戦闘機の模型を展示し、保存会のメンバーと共に、訪れる多くの人たちに平和の尊さを訴えてきました。こうした上谷さんの活動は、さらに加西市を動かすことになりました。

 

*兵庫県いなみ野学園:高齢者の生涯学習の一環として、高齢者に体系的な学習機会を提供するため、兵庫県が昭和44年に全国に先駆けて開設した高齢者大学。4年制の大学講座及び2年制の大学院講座を開設している。

 

祈念式典で合唱する「いなみ野学園コーラスサークル部」

祈念式典で合唱する「いなみ野学園コーラスサークル部」

 

いなみ野学園36期高砂支部同期生の皆さん

いなみ野学園36期高砂支部同期生の皆さん

 

行政を突き動かした、ライフワークとしての平和への想い

 

加西市も、飛行場跡一帯を歴史遺産として保存整備するため、平和学習に活用するためのガイドブックの制作や、防空壕だった施設を活用し、特攻隊員の遺書を映像で紹介する防空壕シアターの開設など、様々な取組を始めました。上谷さんは、そのいずれにおいても、史料や写真の提供はもとより監修や編さんなど、あらゆる協力を行っています。
加西市ふるさと創造部鶉野未来課の担当者は、「歴史遺産の保存と史実を伝え広める活動が、行政と関係団体の連携による取組として注目を浴びています。上谷さんの努力によって道をつけていただき、行政を突き動かしていただきました。」と話します。

上谷さんが「最も感慨深い」と語るのは、鶉野飛行場の滑走路にある備蓄倉庫に展示された戦闘機「紫電改」の実物大模型です。「日本の平和を想い、一致団結した人たちが加西市にいたことを知って欲しい」という上谷さんらの発案を受け、平和学習に役立てようと加西市が製作。令和元年6月より毎月第1・第3日曜日に一般公開され、公開初日には2600人が、その後も毎回約1000人以上が来場。新型コロナウイルス感染拡大予防により、令和2年3月から5月までの公開中止を経て、令和2年6月から再開され、令和2年度も2万人以上が見学に訪れています。

そんな中、上谷さんが「紫電改の製作に取り組んで本当によかった」と話す出会いがありました。
「令和2年11月のことです。94才の元搭乗員で、紫電改の最後のパイロットの方でした。体調がすぐれない中、伊丹市からお越しになり『これが私が乗った飛行機だ』と喜ばれ、いつまでも操縦席から降りようとされませんでした。この鶉野飛行場から特攻隊の少年兵たちが、自分の命と引き換えに戦場へ向かい、『お父さん、お母さん、さようなら』と言って亡くなっていきました。彼らの想いが私を支え、この活動の後押しをしている気がしてなりません。」
静かにたたずむ紫電改を見つめながら、上谷さんはライフワークとしての平和への想いを語り続けました。

 

資料館の展示

資料館の展示

 

紫電改の一般公開にはたくさんの人が訪れる

紫電改の一般公開にはたくさんの人が訪れる

 

平和を学ぶ歴史の教科書があるまちとして、加西市を広めたい

 

約28年間に及ぶ、鶉野飛行場の歴史保存活動を「最後のライフワーク」と呼ぶ上谷さん。終戦当時、国民学校1年生だった自身も空襲を体験。戦争体験を語ることのできる最後の世代だと言います。
「活動を通じて出会った元特攻隊員の方々をはじめ、関係者の多くが鬼籍に入り、戦争体験者が消えていきます。 今残さなくては、史実を語り伝える人がいなくなってしまう。日本の平和を願いながら亡くなっていった多くの若者たちの想いを、後世に残してあげたい。あなたたちの死は無駄ではなかったと知らせてあげたい。多くの人々の犠牲があったことを知らずして、今の日本の平和を語ることはできません。決して忘れてはいけない事実なのだと、飛行場を通じて伝え残したいのです。」

そんな上谷さんの想いは今、加西市の取組につながっています。
「今、加西市で検索すると鶉野が出てくるほど、全国に広がる大きな取組になっています。修学旅行の平和学習に利用する小学校、中学校が多く、令和2年度は近畿地方を中心に40校が鶉野飛行場跡を訪れました。令和3年度も40件を超える問合せが届いているんです。現在は、保存会が運営されている資料館を継承する『鶉野ミュージアム(仮称)』の建設工事が進んでおり、令和4年春の竣工を目指しています。」とふるさと創造部鶉野未来課の担当者。
上谷さんは「一般的な観光地ではなく、平和の大切さを学ぶための生きた歴史の教科書があるまちとして、加西市を知っていただけます。多くの人に戦争のむなしさと、平和の尊さについて考えていただく場所になりました。」と語ります。

命をかけて日本を守ろうとした人たちの命の重みを感じることで、平和の意味を考えて欲しいと話す上谷さん。
「平和とは何か?」
最後に投げかけられた、上谷さんからの問いかけ。特攻隊員たちの記憶を残す鶉野飛行場跡の滑走路に立つ時、その答えに出会えるかもしれません。

 

修学旅行生たちを前に平和の尊さを語る上谷さん

修学旅行生たちを前に平和の尊さを語る上谷さん

 

令和元年6月9日に行われた「紫電改」実物大模型のお披露目で解説する上谷さん

令和元年6月9日に行われた「紫電改」実物大模型のお披露目で解説する上谷さん

 

 

POWER WORD

「史実は小説より奇なり」

戦争当時の資料がほとんど残されておらず、体験者の記録や証言を裏付けるための史実を、正確に知る困難さに直面しました。作文で史実は作れません。裏付けとなるものが真実であればあるほど、訴えかける力も大きくなります。だからこそ、正しい史実を後世に残すことをモットーに、調査・記録・保存活動に取り組んできました。飛行場の歴史も、元特攻隊員の日誌も、聴き取り調査の裏付けを防衛省の図書館で調べた資料と照らし合わせながら残していったんです。搭乗員の練習に使われた「九七式艦上攻撃機(*)」の当時の写真が一枚だけ残っていたおかげで、機体の大きさや3人が乗る座席、「ヒメ342」と書かれた機体番号が確認できました。裏付けとなる本物の史実を残して初めて、想像で終わることのない戦争遺跡としての平和への訴えが届くのだと思います。本物に勝るものはないのです。

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