「引き寄せられるように出会った」と、寺尾直美さんが語る助産師という仕事。「私の仕事はこれだ」と、やっと思えた職業でした。かつて助産師は、地域に一人は存在し、女性や子ども、地域全体の健康を支え、生命の教育に関わっていました。現在、そんな助産師が営む助産院は、三木市内では「なおみ助産院」ただ一軒(*)。その中で、「出産後、頼れる人や場所のないお母さんが、安心して産後の体を休ませてほしい。」「産後の生活や母乳、育児の不安やトラブルを、気軽に相談してほしい。」と、母親たちに寄り添い続ける寺尾さん。産後間もない母親たちの「自分を大切にできる場所」であり続けたいと言う寺尾さんに、お話を伺いました。
*三木市が産後ケア指定医療機関に定めている助産院
「お母さんたちの、そばにいる人になろう」
令和5年1月18日。寺尾さんは、「なおみ助産院」の移転開設2周年を記念し、助産院を利用する母親たちに向けたインターネット生放送に臨んでいました。「不安だった時、足を運べる場所があって救われた。」「寺尾さんがいてくれたから、子育て中のお母さんたちとつながれた。」など、母親たちから届いていたのは、たくさんの感謝のメッセージでした。
「『産後ケアに通うことができてよかった。』と言っていただくと、もっと頑張ろうって思えます。」と、楽しそうに話す寺尾さん。「この仕事をやるしかない」と思えた助産師という職業に巡り合うまで、様々なチャレンジを重ねてきました。
高校時代には、娯楽のない厳しい寮生活を乗り切るため、友達と漫才に挑戦。卒業後、お笑いタレントを目指しタレント養成所へ入所しましたが、思うような結果を残せず、1年で帰郷。その後、受付として勤務していた美容外科医院で、看護師の仕事に興味を持ち、働きながら受験勉強に励み看護専門学校へ。看護師を目指し学び始めた寺尾さんでしたが、その矢先、思わぬ出来事が起こりました。入学したばかりの5月に母親の病気が発覚し、9月に帰らぬ人になってしまったのです。
「今更、看護を学んで何になるんだろうと思い、学校へ行くのも辛かった。」と言う寺尾さん。しかし、2年生の冬、出産に立ち会った実習授業が、進む道を決心させました。
「母親という頼れる存在がなくなったことで、生活する自信も無くしていた時でした。へその緒でつながれた赤ちゃんが生まれる瞬間を目にした時、『私もこうしてお母さんとつながっていたんだ。私、大丈夫だ!』と思えました。その時、お母さんたちの、そばにいる人になろうと決めたんです。」
看護専門学校を卒業後、助産師免許取得のため助産科のある専門学校へ入学。そこで、助産院の開業を志すきっかけとなった授業に出会いました。
「かつて、助産師は『産婆(さんば)さん』と呼ばれ、出産の介助をはじめ、取り上げた子どもの成長を見守りながら、女性の一生を支える役割として、地域になくてはならない人だったと習いました。私は病院での分娩だったそうですが、自宅で出産したかったとのお母さんの言葉を思い出し、私も助産院を開き、かつての産婆さんのように、地域の女性に寄り添う仕事がしたいと思うようになりました。」 1年後、国家試験に合格し助産師免許を取得した寺尾さん。平成19年、28歳で念願の助産師になったのです。
産後間もない母親が、安心して育児ができる場所
病院や助産院勤務を経て、平成23年11月、寺尾さんは出張訪問専門の助産院を開業。母乳育児相談や乳房ケア、生後4か月までの乳児と保護者に、情報提供や相談を行う家庭訪問などの活動を始めました。平成30年9月には、自分自身の子育てと両立するため、自宅の一室を改装し助産院を開設しましたが、令和2年に新型コロナウイルスが流行。緊急事態宣言の発令により、自分の子どもたちが自宅待機を余儀なくされる環境へ、産後間もない母子を迎え入れることに限界を感じた寺尾さん。新たな開設場所を探し求め、ようやく見つけた古民家への移転のため、クラウドファンディングにも挑戦。多くの支援を受け、令和3年1月、現在の助産院を開設することができました。
移転後の助産院では、従来の母乳育児相談や乳房ケアなどを行う「母乳外来(助産師外来)」のほか、育児講座の開催や、小学校での性教育の授業、歯科医院でのベビーマッサージ教室など、様々な活動を開始。更に、新たに始めたのが、「日帰り型産後ケア(以下、産後ケア)」と、子どもを連れた母親たちがゆったりと過ごせるカフェの運営です。
「産後ケア」とは、出産後1年未満の母親を対象に、健康管理をはじめ沐浴や授乳などの赤ちゃんのお世話の指導、産後の生活のアドバイスなどを行うもの。「なおみ助産院」では、毎週月・火・木曜日に、1日3組の母子を受け入れています。
産後ケアを始めるにあたり、寺尾さんが大切にしたかったのは、母親たちが産後の不安や母乳育児のトラブルを解消し、心身ともにゆっくり休める環境でした。例えば、朝、来院した母親たちを部屋へ案内すると、寺尾さんは、乳房ケアをはじめ、沐浴や授乳の指導、介助を行います。それが終了すると、子育て経験豊富な主婦や保育士資格を持つ育児中の母親といったスタッフ4人が、母親に代わって赤ちゃんにミルクを飲ませたり、おむつを替えたり、お世話役を引き受けます。
そんな助産院のオープン日は、親子で集えるカフェも開設。畳が敷かれた広々としたフリースペースに、セルフサービスのドリンクを用意。子どもたちが機嫌よくいられるよう、絵本やおもちゃも揃えています。
「子どもたちを遊ばせることが目的ではなく、お母さんたちが安心して時間を過ごせる場所です。月に20組~30組が利用されています。」 世の中の活動が停滞気味だった、コロナ禍の不安な時期にも関わらず、移転開設に踏み切った寺尾さん。それは、自宅で開いていた助産院を訪れる母親たちの様子に、危機感を抱いたからでした。
子育てに必要なのは、人との関わり
「コロナ禍で誰とも会えず、不安ばかり募らせているお母さんたちが、心配だったんです。通常なら、児童センターへ行けば、そこで出会うお母さんと様々な育児情報を交換できます。しかし、コロナ禍で育児をするお母さんたちは、ちょっと経験者に尋ねれば解決する困りごとも一人で抱えていたり、インターネットに頼るしかない情報収集に不安ばかり募らせていたり、悩む内容や様子が今までとは違いました。子育ては、人との関わりの中で成り立っているもの。お母さん同士のつながりや、保健師、助産師などとの関わりがある中で、産後ケアが行える場所をつくらなくてはだめだと思いました。地域の助産師に『これで大丈夫』と言ってもらえたら、お母さんたちもきっと心強いだろうと思ったんです。」
そんな寺尾さんの想いに応えるように、開設後は、「人気(ひとけ)のある場所で、子どもと過ごせるのが安心」と、カフェで終日過ごす母子もいます。また、ある時は、産後で気持ちが塞ぎ込んでいた母親が、元気を取り戻せたこともありました。
「助産院で一緒に時間を過ごすうち、胸の奥に抱えていた不安をぽつぽつと話されるようになりました。三木市の子育て支援担当者に相談し、対処していただいた結果、元気になられたんです。後日、お母さんが『幸せになれました』と、赤ちゃんと一緒に報告に来てくださった時は、ここを開設してよかったと思いました。」と振り返ります。
「まだ、産後ケアの存在を知らない人もたくさんいます。母乳外来に来られたお母さんに『今、2階でお母さんたちが寝ているよ』と言うと、『昼寝をしてもいいんですか!?』って驚く人もいます。産後の体や心に不調を感じていたり、育児に不安があったりするお母さんにも、相談に来てほしいと思っています。」
そんな寺尾さんの夢は「出産直後の母親が1か月間、養生に専念できる『産後ケアホテル』を開くこと。」 その一歩目として、令和5年4月から宿泊型産後ケアをスタートします。
自分を大切にできる母親になってほしい
「赤ちゃんのためにと、一生懸命になりすぎるあまり、自分が疲れ切っていることに気付いていないお母さんが多いんです。まずは、自分が休んで元気でいることが大切。『自分を大事にしよう』と、お母さんたちに伝えたい。」と話します。
産後ケアのために訪れた母親の中には、「部屋で寝ていていいよ。」と言われても、預けた子どもの様子が気にかかり、スタッフの元へやって来る人や、部屋で一人になると「何をすればいいのかわからない。」と、そわそわ落ち着かない人もいます。そんな母親たちが「本を読めた。」「スマートフォンでゲームができた。」と、気持ちが少しずつ自分自身に向き始めている様子を見ると、嬉しくなると言う寺尾さん。
「休んで元気になろうと伝えた言葉が、お母さんたちに響き始め、行動に移せるようになってくれることも、私の原動力です。」
そんな寺尾さんが、一番大切にしたいのは、母親自身がやりたいことを尊重し、優先させること。子どもと離れたくない母親には、休むことを強要せず、赤ちゃんの世話を任せたり、自分の時間が欲しい母親には、母乳にこだわらずミルクを飲ませることを勧めたりします。母乳が出にくい体調でも、授乳を希望する母親には、精一杯、介助します。
「お母さんの幸せは、お母さん自身にしか決められません。一人ひとりのお母さんが希望する子育てに、寄り添いたいと思っています。『育て方がわからないから、自分がどうしたいのかもわからない。』というお母さんもいますが、みんな自分の中に答えを持っています。話し合うことで、自分で決められるようになり、自分で決められれば自尊心も育ちます。その結果、自信を持って子育てができるようになります。お母さんたちが、自分自身を好きでいられる子育ての、後押しをしたいんです。」
これからも寺尾さんは、地域に暮らす母親たちの「産婆さん」として、寄り添い続けます。