1980年、住民主体・行政支援に基づくまちづくり活動のための組織として発足。
2年後、神戸市との「まちづくり協定」締結により、主に建物や道路などハード面に関わる再開発を中心に、まちづくり活動の基盤を担ってきた。
イベントの企画・運営を通して住民が交流し暮らしやすいまちをつくる「真野ふれあいのまちづくり協議会」、地域の防災活動を通じて、緊急時に助け合える組織づくりを目指す「真野地区防災福祉コミュニティ」と並ぶ真野地区まちづくり活動の柱の一つとして、16 の自治会ならびに老人会やPTA といった地区内の諸団体と連携を図りながら「人口の定着」「住宅と工場の共存・共栄」「うるおいのある住環境」の実現に取り組んでいる。
住民、学校、企業など、あらゆるコミュニティをつないで地域の力を高めてきた「真野地区まちづくり推進会(以下、推進会)」は設立から45年目を迎えた。阪神・淡路大震災でも発揮された強固な地域力は、まちづくりの先駆的事例として各地から視察が絶えない。高齢化が進む令和の時代にも、まちの活力は変わらないのか。前回取材から5年の時を経た、“まちづくりの老舗”の今に迫った。
取材・文:新川和賀子
幕を引くなら自分たちで。災禍で終わらせない
海にほど近く、兵庫運河や湊川に囲まれた場所に位置する真野地区。新旧の住宅が立ち並ぶ区画に町工場や中小企業が点在し、4,000人弱が暮らす。30年前の大震災では一部が火災に見舞われ、全半壊が3割に及ぶ大きな被害を受けたが、所々にある古い建物や路地がいまだ下町風情を残す。
震災発生後、円滑な避難所運営や復興を地域の人たちの力で成し遂げていった様子は前回の取材記事で触れられているが、2020年、再びやってきた“災害”は、人と人との交わりを分断するものだった。このまちにどう影響したのだろうか。事務局長の中村博文さん(76)が語る。
- 中村
- コロナやからみんな離れていくんじゃなしにね。よそに行かれへんから、逆にここ(真野地区まちづくり会館)に人が自然と集った。検温機や間仕切りなんかもすぐ買いに行って対策して。何があっても、人のつながりだけは途切れさせたらあかんと。
映画会、ふれあい喫茶、ブックカフェ、防災お助け塾・・日々あらゆるイベントで住民たちが長年交流を続けてきた。コロナ禍で大きな祭りなどはさすがに中止せざるをえなかったが、行政から集会自粛の通達が出ない限り、感染対策を行いながら「真野地区防災福祉コミュニティ(以下、防コミ)」や、「真野ふれあいのまちづくり協議会(以下、ふれまち)」の委員による、毎月の定例会議も続けた。
災禍であっても地域活動を止めないという選択は、過去の経験から得たものでもあった。代表の馬場廣志さん(74)、相談役の清水光久さん(84)の言葉からも思いがにじむ。
- 馬場
- いっぺんやめてしまえば、またそれを一から立ち上げるというのはむずかしい。続けてさえいれば何とかなるんです。
- 清水
- 例えば、子ども会とか同窓会とか、過去に休会したものもある。それは今、やっぱりできてないから。
- 中村
-
終わらす時はもうちょっとドラマチックに終わらさんとね。無くなる時はどうせ無くなる、いろんなものが変わっていく。
でも、災害やから無くすんじゃなくて、やっぱり自分らで幕引かな。
閉じていく、つないでいく
中村さんの言葉通り、近年、自ら“幕を引いた”行事もある。
震災から5年ごとに開催してきた「阪神・淡路大震災復興祈念集会」を、30年を前にした2023年(震災28年)に一旦終わらせたのだ。
この時点で、復興に携わった地域リーダーが30人以上亡くなっていた。「果たして2年後の震災30年までわれわれも持つだろうか」。現在の中心メンバーがそう考えての早じまいだったという。
「真野まちづくり大同窓会〜過去・現在・未来〜」と題した最後の復興祈念集会には、地元住民をはじめ、ボランティアとして関わった人やまちづくり関係者、真野に思いを寄せる80人以上が東京や九州からも集まった。単に昔を回顧するのではなく、これからの地区のあり方を楽しく考えようと、まち歩きやワークショップ、宴会まで7時間にわたって行われたという。
大きな区切りをつけたわけだが、当初予定していた震災30年を迎えるにあたり、推進会は2025年1月19日に「祈念集会」を再び開くことにした。
真野地区も例外なく高齢化が進み、人口に対する割合は4割に迫る。そんな中、推進会設立から45年が経つ今でも精力的に動き続けていられるのは、世代交代が進んだ証でもある。
現在の中心メンバーは、震災当時は40代の働き盛りで多くが地区の外に勤める会社員だった。地域活動にはほとんど参加していなかったそうだ。副代表で、「防コミ」代表も兼任する伊藤鉄夫さんが振り返る。
- 伊藤
- 震災当時は、トレーラーの運転手として忙しく働いていました。地区では「同志会」という青年団には入ってたけど、まちづくりには深く関わってなかった。でも震災が起きて、同志会のみんなが避難所のボランティアに加わってな。その時からのつながりが大きくて、当時の同志会メンバーの半分くらいが、今、自治会長になってるんです。
現在も会社員をしながら代表を務める馬場さんも、地区の人たちが積み上げた活動の歴史が、推進会に加わった理由の一つだという。
- 馬場
- やっぱり、先輩たちが頑張ってきた姿を見とるからね。その人たちから「地域のためにやってくれ」って言われたら断れん。自然な形で「やらせていただきます」って受けたから、今がありますね。
変幻自在な、ひととまち
現在の推進会のメンバーは、およそ60名。自治会長や、民生委員、イベント運営の「ふれまち」、防災活動の「防コミ」など、諸団体の委員も兼務する人が多い。住民のみならず企業や学校も名を連ねる推進会が地区全体を俯瞰し、事業の調整や課題に取り組むのも真野地区のまちづくりの大きな特徴だ。
何かが終わっても地域の活動が止まらないのは、細胞のように各コミュニティがつながり続ける仕組みも要因の一つだろう。
地区は人口減少や少子化も進むが、次なる世代との結びつきにも力を入れる。空き家活用やファミリー向け住宅建設への働きかけなど、推進会が担うハード面でのまちづくりも奏功しているのか、新住民も増えつつある。
地域のイベントにも子育て世帯が参加しやすい工夫を凝らす。
- 中村
- イベントを開催する時は小学校の先生に連絡して、子どもたちに企画で参加してもらいます。例えば、盆踊りの時、子どもたちに合唱してもらう。それで、お礼に屋台で使える金券を渡して楽しんでもらうんです。
- 馬場
- 親御さんも一緒に来てくれるから、そういうところで若い世代の方々とつながりができますね。
最近では、地元少年野球チームの保護者たちが独自にイベントを開催していることを知り、会議などで交流を重ねて、初めて合同でクリスマス会を開くことになったという。
少子化により子ども会は休会しているが、「子どもたちに良い環境で育ってほしいと動き出す若い親世代がポツポツと出てきている」と中村さんは話す。
多文化との交わりも増えた。神戸市長田区は在日外国人が多い地域として知られるが、真野地区では、近年、ベトナム人の新住民が急増しているという。はじめは文化の違いなどからコミュニケーションがうまく取れなかったが、過去にベトナムに住んでいたことがある推進会の若手相談役や、ベトナム人と日本人の夫妻らを中心に尽力。地域の案内チラシをベトナム語に訳し、清掃活動に参加してもらったり、日本語教室を開催したりして徐々に関わりを深めた。2024年夏にはベトナム伝統の人形劇を共に開催し、サマースクールの一環として地区の子どもたちも演技に参加した。
語り継ぐよりも、アップデートする
- 馬場
- これから新たな発想で企画していかなあかん。若い人たちに参加してもらい、それぞれの思いを出してもらって、それを次のまちづくりの課題にして進んでいけたらと思ってね。
推進会が見つめる先は常に“未来”だ。1980年の発足から、10年後、20年後を見据えてハード面のまちづくり計画を策定して見直しを重ね、現在は第4期計画に入っている。
下町の良さを残すまち並みも時代に合わせて区画整理を実現し、住みやすい形に変えてきた。
会の長い歴史の中で、30年前の大災害を乗り越えてきた経験は大きな財産だ。震災10年、15年などのタイミングで記録集も発行し、過去に学び後世に伝える姿勢も示してきた。
しかしながら、そこには甘えず、常にアップデートを続ける。専門家を招いて、地震が多いイタリアや台湾の最新の避難所運営についての勉強会も開いた。
- 中村
- われわれは震災でものすごい経験をして、それは活動していく心の支えにもなってるけど、今、同じやり方をしても時代に合わない。制度も変わった。語り部だけをやるんじゃなく、切り替えて新しいことをしないと。
- 伊藤
- 防災訓練は常にやるし、小学生に向けて震災当時のことを話す機会もある。でも、次の南海トラフ地震に向けて何をしていくのかが大事。話し合って煮詰めているところです。
多くの命や平穏な暮らしを失った過去があるからこその発言に熱がこもる。
それでも、非常時に生かされるつながりの土台を作っている平時の活動には、肩の力が抜けた「みんなで集まって楽しむ」というスタイルがある。日々続ける、喫茶会などのイベントを通じて信頼関係が自然に培われてきた。
- 清水
- 楽しむ仕組みを作ってきたんです。例えば暴力団追放運動の時ですら、決起集会でバザーをしたり、オリジナルの歌を作って披露したり。活動終わりには一緒に飲んで、「来月もまた頑張ろうな」と。絶えず、みんなが参加できるようにしてきました。
- 馬場
- みんな文句言いながらでも、結局何かやるのが好きなんやな。
真野地区の人たちはまちづくりに対して、しなやかで柔軟だ。
経験におごらず更新し続ける。トップダウンではなく、“みんな”の声を聞いて暮らしやすいまちを考える。
中村さんの言葉は、推進会の今とこれからを表しているようだった。
- 中村
- 時代も生活もまちも変わる中で、自分たちのやり方も問い続けている。変わろうとする行動が魅力も出していくと思うんです。それを背中で見せて、若い人たちを惹きつけられたら。
まちは、次の世代を主役に見据えたリレーが始まろうとしている。