家業に携わるようになり、祭や消防団などの地域活動に参加し始めた藤原弘三さん。ある日、「“楽しい”が、なくなっている……。」と気がついた。
「企業も地域も元気になるには、『仕事って面白い!』『米づくりって楽しい!』と思える何かが必要だ。」
発想力と行動力で、その「何か」を形にし続ける藤原さんに想いを聴いた。
米をつくる祖父は、かっこよかった
兵庫県が生産量日本一を誇る酒米の王様「山田錦」、その産地の中でも、最高品質の酒米が育つ地域として格付けされる「特A地区」。藤原さんの地元である加東市松沢も、その特A地区に指定された米どころだ。
「子どもの頃、稲刈りは“いいもの”でした。刈り取りを終えた日は、ライスセンター(*)へ出荷を終えた祖父が肉を買って帰ってくるんです。その夜は、決まって“すき焼き”でした。」
楽しそうに米づくりに励んでいた祖父。その姿は、藤原少年の目にかっこよく映っていた。
19歳でニュージーランドへ留学した藤原さん。オーストラリアでの就労を経て、帰国後に目にしたのは、農家の高齢化と担い手不足により、休耕田が目立つ故郷だった。その後、中子製造工場を創業した父親に誘われ、専務として経営に携わることになった時、抱いたのは人手不足への危機感だった。
*ライスセンター:稲刈りを終えたばかりのもみを荷受し、乾燥・もみすり・選別・出荷まで行う施設
楽しさの始まりは、アルミコップ!
「当時、会社には両親と高齢のパート従業員が2人だけ。新卒者が入社してくるイメージが湧きませんでした。働きたいと思ってもらえる会社をつくりたい。そのためには、何を製造している会社なのかがわかり、仕事が楽しいと思えなくてはいけないと感じました。」
中子製造に加え、金型製造、鋳造、加工まで、一貫生産によるメーカー体制を2年かけて整えた。若い職人も増えた。彼らに仕事の楽しさを感じてもらい、もっとやる気を引き出してあげたかった。
「そもそも仕事とは、世の中のためにどう役立っているのかが重要なはず。自分のつくったものが世に出る瞬間を味わえたら、仕事って面白いと思えるのでは。」
藤原さんは、自社の製造技術を活かし、みんなでアルミコップをつくってみた。その時だった。いつもは、中子や金型の試作品を淡々と仕上げる職人が、できあがった瞬間、「やった!」と喜びの声をあげたのだ。
「『このコップ、持ち帰ってもいいですか。僕の仕事を両親に説明したいんです。』と、彼がうれしそうに言ったんです。仕事が“賃金をもらうこと”から“ものをつくって喜びを感じること”に切り替わったと思いました。」
アルミコップから始まった挑戦は、「NAKAGO」と名付けたスズ製酒器の製品化につながった。
そして、藤原さんは気がついた。酒米づくりも、同じなのだと。
「わしの米が、酒になった!」
「農家の人たちに、なぜ酒米をつくっているのか尋ねても、『隣のおやじさんがやめたから』『昔から、うちに田んぼがあるから』という答えしか返ってきません。特A地区という希少な地域で最高の酒米をつくれていること、それがいいお酒になって多くの人に喜んでもらえていることが、見えていなかったんです。」
仕方なく取り組む米づくりに、楽しさは感じられない。藤原さんは、自分たちの地区でとれた酒米で、地元の酒をつくることを思いついた。JAをはじめ酒造会社や酒販店の協力のもと、2021年、初めての商品化にこぎつけた。名付けて「松沢」。地元の方言で「まった」と読む。約600リットルを製造し、5月に販売を開始。11月に完売した人気ぶりは2022年以降も変わることなく、人気酒に育ち続けている。2023年には、第二弾の村酒「純米吟醸酒 小澤」、そして2024年5月には第三弾「純米無濾過原酒 新定」が完成する。
一方、自社に農業部門を立ち上げ、ライスセンターを完備したのは2022年だ。
「農家さんへ完成したお酒を持って行くと、『来年も、ええ米をつくってやるからな』と言ってくれます。自分たちのお酒が、酒米づくりのモチベーションアップに繋がったと確信した瞬間でした。」と藤原さん。世帯ごとの米を大切に乾燥調整することで、特A地区「山田錦」のブランドを農家と共に守り、未来に繋げていくと話す。
様々な事業を展開する藤原さんの発送と行動力は、どこから生まれてくるのだろう。
自分は、自分のままでいい
自分で考え、決断し、行動する。藤原さんを支えている信条だ。親元を離れ、海外で暮らしたことが転機になった。日本では両親に伺いを立てながら行動することが多かったが、留学先では2か月の休学を自ら決めて旅に出た。遊ぶにも語学が必要だと感じ、再び学校へ。湧き上がってきた学習意欲と共に学んだ3か月間は、中身の濃い凝縮した日々だった。親への感謝も芽生えた。そうした経験が、自分の意見や想いを大切にするきっかけになったという。
「周りと感覚が合わなかったんです。やればいいと思うことも、『失敗したらどうする?』って挑戦しようとしない。僕がやってみて失敗すると、『ほらな』って笑い否定する。そういう人間の方が多くて、多い方が“普通”の考えとして正当化されがちな世の中なので、“普通”じゃない僕は悪者扱いされていましたね。」
地元で事業に取り組み始めてからも、想いを否定されることが多かった。それが気持ちの負担になり始めた頃、「そのままでいいんじゃない?」と、尊敬する先輩経営者が声をかけてくれた。「周りに合わせず、自分を通す生き方を大切にしようと思えました。」と振り返る。
そんな藤原さんは「ビジネスは数字ではなく、想いこそ大切」と言い切る。常に願うのは、地域の人々や自社の従業員が、楽しく働き生きること。そして、地元に明るい未来が訪れることだ。
松沢を、帰りたくなる故郷にしたい!
「子どもたちが都会に出る理由はたくさんあっても、帰ってくる理由がないんです。」
かつては「ええ米がとれた」と、田んぼ仕事に勤しむ祖父や父が輝いて見えた。しかし今は、「米づくりなんて面倒くさいし、しんどい、やめておけ。」と止められる。地元の子どもたちがUターンする理由を、地元の大人たちが奪っているように、藤原さんの目には映る。
「それを僕たちの世代で止められたらいいなと思っています。『この酒には、米をつくったわしの名前が入ってるねん』って自慢しているおじいちゃんを、かっこいいと思ってほしい。そのきっかけづくりです。」
地元への想いを行動に移す理由を、藤原さんは「時間も知識も、たまたま自分にできることがあったからやっているだけ。」とさらりと言う。
「今は、自分の足元にゴミが落ちていても、『私はゴミ拾いの担当者じゃない』って知らん顔をする時代です。僕はそれが好きじゃない。自分でできるんだから、自分の手で拾おうよって言ってるだけです。」
青々と育った稲が風に揺れる田んぼの真ん中に、川床のような舞台がある。舞台上には、松沢を訪れ、酒と食事を供されている観光客たちの姿。米を語ってもてなすのは、地元農家の人たちだ。そこで味わった酒のおいしさは、松沢の名と共に人から人へ広まってゆく――。藤原さんが、想い描くビジョンだ。
「生まれ育った故郷の名前を誰もが知っているって、すごい自慢でしょ? 地元って、今いる人が自慢できるまちじゃないといけないと思うんですよね。」
寂しさしか感じられなかった故郷に、明るい未来を描けるようになったのは、父や家族、従業員たちのおかげだと言う藤原さん。想いをかなえた暁には、みんなとすき焼きで祝おう。かっこよかった“おじいちゃん”たちに、少しは近づけるはずだ。