*ボイスパーカッション:打楽器の音色を声や息の出し方などでそっくりに表現する演奏手法
石田裕之さん
“上を向いて歩こう 涙がこぼれないように……(*)”
平成23年5月14日。石巻市の体育館は、あふれる笑顔で肩を組み、ギターの音色に合わせて体を左右に揺らしながら歌う被災者たちの大きな歌声に包まれていた。
「東日本大震災のボランティア活動に参加した石巻市で、がれきの撤去作業を終えた時『避難所でコンサートをしませんか』と社会福祉協議会から提案をいただきました。お受けしたものの、なんと声をかければいいのか、一曲目に何を歌えばいいのか、そもそも避難所で歌って喜んでもらえるのか、悩んでしまったんです。その気持ちを皆さんに正直に話し、歌いたい曲のリクエストをいただくことにしました。」
しばらくして、一人の女子中学生が手を挙げた。
「前で一緒に歌ってくれる?」
石田さんの呼びかけに応え、楽しそうに歌った女子中学生を皮切りに次々とリクエストの輪が拡がり、最後は全員での大合唱になったのだ。
「その光景は忘れられません。音楽ってすごい、歌の活動を続けてきてよかったと、人生の中で一番強く思いました。」
当初は遠巻きに眺めていた人たちも石田さんに握手を求めて行列を作る中、一人の年配女性が言葉をかけてきた。
「避難所のコンサートで、私たちに歌わせてくれたのはあなたが初めてよ。泣きたい時、叫びたい時、笑いたい時や歌いたい時も、避難所だからずっとこらえてきた。大きな声で一緒に歌えて、ちょっと心が軽くなった。ありがとう、また来てね。」
石田さんは「音楽がこんなにも必要とされ、喜んでもらえたことに感動しました。どんなボランティア活動でも、相手が心で求めていることに応えようと思いました。」と話す。
ギュッと握られた女性の手に「心がつながった」と感じた石田さん。心の声を聴くことの大切さを教えてくれた音楽との出会いは、中学時代にさかのぼる。
*坂本九「上を向いて歩こう」(作詞:永六輔)より引用
被災者たちに「絶対また来ます」と交わした約束通り、宮城県石巻市を毎月訪問。地元の人々との心の交流は、すでに70回を超えた。
平成23年、被災者の言葉をつないで歌詞を作った復興支援ソング「やっぺす♡石巻」。「一緒にやりましょう」を意味する石巻の方言「やっぺす」には、被災者に寄り添う想いが込められている。
「歌手になりたい。」
石田さんがそう思ったのは中学3年生の頃。倉庫で見つけた父親のギターを独学で弾き始め、高校、大学とバンド活動にのめりこんだ。大学卒業を控え、本格的にミュージシャンを目指すと決めた時、周りのメンバーたちは次々に音楽を離れて一般企業へ就職。石田さんは一人きりになった。
「自分は何ができるんだろう、自分って何だろうと、アイデンティティを問い直すことになりました。」
阪神・淡路大震災で多くの犠牲者が出た神戸の市民でありながら、大きな被害もなかった自分がどこか後ろめたく、震災を語ることへの戸惑いを感じていた中学生当時。被災者たちの困難を傍観するしかないもどかしさに苦しんでいた時、ボランティア活動を通してまちへの愛着が自分の中からあぶり出され、助け合いの気持ちがあれば社会との接点を持てる喜びを知ったという石田さん。
「そんな自分だからこそ地域に根差し、音楽を通じて全国へ元気を発信したい。そう思ったことが、この世界に入ろうとしたきっかけだったと思い出したんです。」
大学卒業から半年後、デビュー曲を神戸ルミナリエの応援歌に決めた。被災者への鎮魂と癒しに共鳴し、収益金を寄付する活動からスタートしようと思ったのだ。その時の石田さんは、まだ社会活動をテーマにするつもりはなかったという。しかしこのデビュー曲が、社会派アーティストとしてのその後の生き方を決める入口になった。
全国の被災地を積極的に訪問。「被災地同士が経験を共有し合い、防災への意識や備えをアップデートするための、地域の懸け橋になりたい」と石田さん。写真は、北海道胆振東部地震の被災地のひとつ厚真町でのライブの様子。
講演活動では、子ども向け防災ソング「ぼうさいジャンケンポン」を参加者と一緒に歌いながら、避難の心がけや日頃の心構えを説く。防災士としての顔がのぞく活動だ。
「この歌を使ってください」「ここで歌わせてください」。
寒い冬の神戸の街を営業に回りながら、あちらこちらの街頭で歌う石田さんを、街の人たちは温かく迎えてくれたという。イベントやショッピングセンターの催事などへ出演が増え、県内の団体や自治体からも「歌を使いたい」「社会啓発のキャンペーンソングを作ってほしい」といった依頼が届くようになった。
「社会活動に取り組んでいる方々から歌で啓発したいと言われたことで、音楽には聴く耳を持ってもらえたり、心を開いてもらう力があることを教わったんです。同時に社会には様々な問題や課題があることにも気づかされ、刺激を受けたことで新たな歌が生まれていきました。」
数多くの曲をつくってきた石田さんが、最も印象深いと語る一曲がある。ある障害者施設から制作を依頼された「ふわり」という歌だ。
「そこの施設には、障害のある人もない人も一緒に働いているコミュニティカフェがあります。障害者と健常者が交流する機会が増えたことで心のバリアフリーが拡がり、障害者が街に出る機会が増えたそうです。社会の課題を解決しようと頑張っている人たちがたくさんいらっしゃると気づけたことは、人生の大きな糧(かて)になりました。日常の会話では恥ずかしくて言えない大それたことでも、許されたり信じられたりするのが歌の魅力です。たくさんの人に出会えたことで、そんな歌の力を信じて大切なことをまっすぐに伝えていこうと思えるようになったんです。」
石田さんが音楽活動で最も大切にしてきた、人との出会い。次のステージも、新たな出会いの先に用意されていた。
「やさしい気持ちが “ふわり”と周りの人たちにも伝わるように」との想いを込めた曲「ふわり」。石田さんの願い通り「歌いたい」「使いたい」という依頼が集まり、どんどん拡散していった。
音楽は国境を越えて、みんなを笑顔にすることを体験した石田さん。歌を通じて、バングラデシュの子どもたちの教育支援にも取り組んでいる。
ミュージシャンを志すきっかけとなった助け合う喜びを防災というテーマに据え、全国各地での講演や音楽活動に精力的に取り組んできた石田さん。しかし年数を重ねるにつれ、壁も感じ始めていた。啓発のための歌では、防災に関心のない人にメッセージが届かないという課題と向き合っていたのだ。
「もっと広く発信できる力が欲しい」と思っていた頃、転機となる人物が現れた。兵庫県立大学に新設された防災のための大学院「減災復興政策研究科」で、防災減災と音楽の繋がりをテーマに研究していたKAZZさんを紹介されたのだ。
「KAZZさんは、音楽をエンターテインメントとして神戸から発信していたミュージシャン。一緒にやろうと声をかけられたことで、啓発メッセージをエンターテインメントとして届けるため、ポップスの世界で勝負しようと決心しました。」
こうして平成29年、防災減災をテーマにした音楽ユニットBloom Worksを結成。自分たちの音楽をエンターテインメントとして発信し始めた翌年、さっそく手応えを実感することになった。平成30年4月、防災減災音楽フェス「BGMスクエア」を開催。神戸震災復興記念公園を会場に、全国から集まったアーティストたちの演奏をはじめ、マンホールトイレの設置体験や南海トラフ地震で想定される津波の高さ34メートルへのバルーン打ち上げなどを行い、2,000人もの来場者を動員。アンケートに答えた91%もの人々が、防災意識が上がったと回答した。
「ステージに上がった時、たくさんの人たちが笑顔で楽しんでいる様子を目にして感激しました。音楽で防災啓発をやって来てよかったと思えた瞬間でした。音楽フェスには多くの人を心で繋ぐ力があります。いろいろな人が携わることで顔の見える関係が生まれ、いざという時すぐに連絡を取り合える横の繋がりを作れます。それが結果的には共助を生むんです。一緒に歌うことで人と人の風通しがよくなったり、お互いが素直に向き合える。これからも、そんな場を多くの人と分かち合いたいと思っています。」
人と人を心で繋ぐ石田さんの音楽には、もう一つ大切なものを繋ぐ力があった。
音楽フェスで助け合い文化を創造したいと、スタートした「BGMスクエア」。「防災・減災を心のBGMに」をテーマに現代版の「お祭り」と位置づけ、地域の繋がり、未災地との繋がりの構築を目指している。
音楽フェスの実行委員は大学生たちが中心。被災体験がなくても社会活動に意欲的な姿を、大震災の風化を恐れる世代の人々へ伝える架け橋になりたいと石田さんは語る。
命に繋がっているもの――。音楽を、石田さんはそう表現する。音を奏(かな)で、歌詞をつむぐことの喜びと共に、生きることの大切さを伝えていきたいと語る。
「自分にとって音楽とは、幸せのために欠かせないものです。じゃあ幸せって何だろうって突き詰めると、生きていることだと思うんです。音楽に取り組んでいる最中にも、生きていられない状況がひたひたと迫っているとしたら、それを見ていないことにして音楽だけを楽しむなんて、自分にはできませんでした。ずっと歌っていたいからこそ、自分が大切に思っている災害への備えを伝えたい、ただそれだけです。音楽と防災って水と油のように思われがちですが、例えば『愛している』『楽しい』『幸せ』って歌う音楽も、大切な人に『生きていてほしい』『生きていたい』と伝える防災も同じメッセージ。生きるという意味において、同じように大切なものです。」
その一方で、日々自らの無力さも感じるという。
「もしも今日、南海トラフ地震が起きたら、今取り組んでいることを伝えきれずに、また多くの人が犠牲になってしまう。防災メッセージをもっと多くの人に伝えられさえすれば、助けられるかもしれない。音楽でそれができると信じつつも、まだ実現できていない自分の至らなさに、今この瞬間も泣きそうになります。人を愛したり幸せを感じたりする当たり前の行動の一つとして、災害に備えることを語り合えるよう、防災の大切さを楽しく音楽で分かち合う活動をもっと広めたいんです。」
そのために石田さんには、ずっと大切にしている想いがある。
訪問した各地で寄せ書きが集まるフラッグ。書き込まれたみんなの想いを言葉で繋ぎ、新たな曲を制作中。スマトラ沖地震の被災地、インドネシア・シムル島で受け取ったメッセージもある。
いざという時に本当に役立つ、アクセサリー感覚の防災グッズも手がけている。一見、リストバンドに見える写真の商品は、居場所を知らせ助けを呼ぶための笛。
阪神・淡路大震災に遭遇したことで、今があることも、明日が来ることも当たり前ではないと知った石田さん。二度と戻らないこの瞬間をいかに大切に生きるかと、考えるようになったという。
「明日、被災して辛い日を過ごすことになったり、大切な人を失ったりするかもしれません。今この瞬間の活動に心を込め、精一杯の熱量で取り組むことが、防災・減災への関心を広めることになると思っています。一本の講演、一本のライブの積み重ねが、明るい将来に繋がればいいなと思っているんです。」
「石田さんを知ってボランティア部に入りました」「東北の被災地でボランティア活動をしてきました」「人と防災未来センター(*)へ見学に行ってきました」。
講演会やライブをきっかけに行動を起こす人が現れていることが、たまらなくうれしいという石田さん。熊本地震では、年配者が多い避難所での炊き出しに魚が欲しいと発信すると、東北の被災者が避難所に海産物を送ってくれた。
「ただ音楽が好きというだけで、一人でできることはすごく小さなことばかり。でも、関わった人たちの中で種をまき続けることが、多くの人のこうした行動に繋がるのだとすれば、関わった人の数だけ助け合いの力も大きくなっていくと思っています。」
心で繋がったみんなの力と、心を繋いだ音楽の力を信じながら、生きるための歌を石田さんは歌い続ける。
*「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」:防災・減災の拠点として、大震災の経験と教訓を伝え、災害への備えを学ぶ防災学習施設
(公開日:R2.01.25)